1999年池袋で起こった無差別通り魔殺人事件。
死者2名負傷者6名の犠牲者を出した無情な殺傷事件の凶悪犯は23歳の若者、造田博でした。
造田博がこのような凶悪な犯行に及んだ背景には何があったのでしょうか?
また、造田博の両親を始めどんな生い立ちで育ったのか?
造田博の生い立ちが凶悪犯行に関係していたのか?
この記事ではそんな疑問を紐解いています。
造田博の生い立ち
池袋通り魔殺人事件は造田博によって、何の罪もない人が無念にも犠牲となってしまったそら恐ろしい事件。
残虐な無差別の通り魔殺人事件が起こってしまった背景には、凶悪犯となった造田博の生い立ちが少なく関係しているようです。
造田博の生い立ちを見てみましょう。
造田博
- 生年月日: 1975年11月29日(2022年で47歳)
- 出身地: 岡山県倉敷市
- 家族構成: 父親、母親、兄
造田博は岡山県倉敷に生まれています。
2022年で47歳です。
池袋通り魔殺人事件が起きたのは1999年9月8日のこと。
造田博は23歳の時に犯行に及んでいます。
造田博の生い立ちがこれほどまでに壮絶でなければ、おそらく造田博は平穏に人生の折り返し地点を迎えていたと、、、、、。
造田博の生い立ちを垣間見ると、池袋通り魔殺人事件は造田博の両親の子育て放棄が引き金となっていったと思わずにはいられません。
最終的には造田博には死刑判決が下されれましたが、造田博の両親も同等の罪が与えられてもいいのでは?と思わずにはいられません。
造田博は大工の父親と、製法会社のミシンの内職をする母親の元に生まれました。
父親は腕のいい大工として評判だったと言います。
母親も家計の為にと、ミシンの技術でコツコツと内職をこなしていました。
造田博はごく普通の家庭に生まれ育っています。
兄弟はお兄さんが一人。
決して生活に困るような極貧な生活とは無縁と言ってもいい家庭に育ちました。
しかし、あることがきっかけで生活の歯車は狂いだします。
人生の歯車が狂い出したと言ってもいいでしょう。
造田博一家は造田博が小学校高学年の時に、岡山県倉敷市から祖父の家がある児島郡灘崎町に引っ越しました。
造田博の父親はこの引っ越しに伴い、兼業農家を営んでいた祖父の土地を相続しています。
祖父の土地の相続によって、造田博の父親は1000万から2000万円の大金を手にします。
それまでコツコツと真面目に大工仕事に精を出していた造田博の父親は、大金を手にしたことで仕事から徐々に離れていきました。
仕事をしなくなった父親を見た母親はこのままではいけないと思うよになり、自分が働き手になって家庭を支えなければと思い生命保険の外交員の仕事に就きます。
生命保険の外交員に就いた造田博の母親は順調に契約を取り、内職とは比べ物にはならない程の給料を得るようになっていきました。
高額の給料を手に入れられるようになった造田博の母親は、徐々に生活も派手になって行き金銭感覚も次第に狂っていきました。
造田博が中学生になった頃には、両親はギャンブルに明け暮れる生活を送るようになっていました。
この時点では造田博は真面目に勉強にも励んでおり、高校進学は進学校の倉敷高校に進学。
その裏では両親のギャンブルはエスカレートしていき、徐々に手元の資金も底をつくようになり借金をしてまでもギャンブルにのめり込む状態になっていました。
造田博が高校2年生の頃になると、借金の返済が滞り始めた両親の元に借金取りが来るように。
借金取りから逃げるよに両親は昼間は家を空けるよになり、夜になると家に戻ってくるようになりました。
お金に困窮するようになったため、造田博は高校を中退せざるを得なくなり、高校を中退。
お弁当屋さんでアルバイトを始めます。
そして1993年11月。
造田博がバイトから家に帰ると、家はもぬけの殻になっており両親は息子を残して蒸発していまったのです。
造田博、18歳の時でした。
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両親に置いていかれた造田博は食べる物もなくなり草を食べ、最終的には借金取りによって家も取り押さえられ、住む場所も失いました。
この頃から造田博の心は壊れて行ったと言ってのいいでしょう。
家も失った造田博は当時大学生だった兄の元、広島県の福山市に身を寄せます。
造田博の生い立ちはごく普通の家庭に生まれながら、両親が思わぬ大金を手に入れたことで金銭感覚が狂い出したことにより、造田博の生い立ちまでもが狂ってしまったのでした。
借金取りから逃れるためにまだ成人前の息子一人を残して蒸発してしまった造田博の両親の罪は決して許されるのもではありません。
造田博も一緒に連れて夜逃げして、どこかの地で一からやり直していたら、何の罪もない人の大切な命が奪われることはなかったことでしょう。
高校中退から犯行前の造田博の生活
1994年1月、両親に置き去りにされた造田博は広島で大学生活を送っていた兄の元に身を寄せました。
兄の元で暮らし始めた造田浩。
この時点では精神的に壊れかけていたからでしょうか。
バイトを始めてもなかなか職場に適応できずに14回も職を転々します。
同時に、恋心を抱いていた小学時代の同級生であったA子につきまとう行為を始めます。
A子に何度も手紙を出し電話もかけていました。
そして、兄には「大学生の彼女がいるから結婚資金を貯めないといけない。」と話していたとのこと。
A子がアメリカに留学した際に、造田浩はA子の後を追うよにアメリカに向かいます。
1998年6月のことでした。
このとき造田博は所持金200ドルを持って渡米しています。
わずか200ドルの所持金で渡米した造田博は日本領事館に保護されますが、この時の造田博はパスポートを破り捨て錯乱状態で会話もままならない状態だったと言います。
そして、ジャパニーズパブテイスト協会の援助により無事に帰国。
この時、造田博は統合失調症を発症していると診断されていたのです。
帰国後、造田博はスパーで万引きをしたり、無賃乗車を繰り返す度に兄が尻ぬぐいをしていました。
ある時、スーパーで万引きをした際に警察官によって取り押さえれた際に一本のナイフを所持していたことが見つかり、銃刀法違反の疑いで逮捕されています。
この頃から造田博の危険な行為が始まっていたのです。
池袋通り魔殺人事件の犯行に及んだ理由は?
池袋通り魔殺人事件を引き起こす直前の造田博は上京していました。
東京都足立区の「住み込み日払い可能」とあった、新聞店に職を求めました。
勤務場所が見つかった造田博は新聞店から徒歩5分の場所に木造のアパートを借りています。
大家さんによると造田博は身一つで上京しており、布団一式は大家さんが提供してあげたと言います。
また新聞店の店主によると、新聞配達の仕事も真面目にこなしていたとのこと。
ただ、同じ新聞店で働く同僚の中に険悪な関係の人がおり、その人と造田博の関係が後に池袋通り魔殺人事件に繋がっていったとも言われています。
ある日、新聞店の険悪な同僚から無言電話をかけられた造田博。
険悪な同僚からの無言電話が切られてから、造田博はアパートに一枚の張り紙を残して消え去ります。
1999年9月8日午前10時。
前夜に宿泊していた赤坂のカプセルホテルを後にした造田博は池袋に到着。
コインロッカーに荷物を預け、デイバックのみでサンシャインシティに向かいます。
午前11時35分、沢山の人が行きかう白昼の池袋。
サンシャインシティの地下通路から東急ハンズ正面入り口前に立った造田博はデイバックの中から包丁と金槌を取り出し奇声を上げながら通行人めがけて突進しました。
無差別に次々に人を切りつけた造田博は、池袋東口のロータリーで通行人5・6人によって取り押さえられ逮捕。
この事件で何の罪もない2人の尊い命が奪われ6人の負傷者を出しました。
造田博がこの無差別の通り魔殺人事件を引き起こした理由の背景には、壮絶で絶望的だった生い立ちが関係していることは言うまでもありません。
その上で、次のような理由が挙げられています。
●承認欲求の強さ
●人生の絶望感
そして、新聞店の険悪な関係だった同僚からの無言電話が直接の引き金となったとも言われています。
2007年4月19日、最高裁で上告を破棄した造田浩には死刑が確定。
現在の造田博は東京拘置所で刑の執行を待ちながら収監されているとのこと。
また造田博は一日喋らず声も発しないとのことで、廃人同然のようだと言います。
造田博の両親は名乗りでることもせず、被害者に謝罪の言葉もないとのこと。
岡山県灘崎の造田博の実家は競売にかけられ、造田家とはまったく関係ない人の手に渡ったそうです。
造田博にしたら
「なぜ自分がこのような環境になってしまったのか?」
「なぜ自分ばかりがこんな惨めな思いをするのか?」
「なぜもっといい家庭環境に生まれなかったのか?」
などなど、沢山の「なぜ自分ばかりが?」こんな思いをたくさん感じていたかもしれません。
しかし、犠牲者となった犠牲者本人はもとより遺族はもっともっと大きくて深い「なぜ?命を奪われたのか?」という気持ちを抱いています。
造田博よりもたくさんの数えきれないほどの「なぜ?」を抱いています。
二度とこのような凶悪で無残な事件が起きませんように。
犠牲者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
まとめ
池袋通り魔殺人事件の凶悪犯の造田浩死刑囚の生い立ちについてまとめました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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