風船おじさんの死因と最後はどうなった?ファンタジー号事件の詳細!

事件事故
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風船おじさんで一躍話題になったファンタジー号事件。

巨大風船に乗りアメリカへ向かった風船おじさんの最後はどのようになったのでしょうか?

この記事ではファンタジー号事件で世間を騒がせた風船おじさんの最後はどうなったかや死因のついてまとめています。

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風船おじさんとは?

巨大風船に乗ってアメリカに行く計画を立て実行したことで、世間を騒がせたファンタジー号事件。

ファンタジー号事件の立役者となったのは、風船おじさんこと鈴木嘉和さんです。

ファンタジー事件の詳細を語る前に、風船おじさんこと鈴木嘉和さんのついて紹介しておきますね。

まずは、風船おじさんのプロフィールからどうぞ↓

鈴木嘉和(すずき よしかず)

生年月日: 1940年8月21日

出身地: 東京都

職業: ピアノ調律師、実業家、自称冒険家

風船おじさんは1940年に東京で、ピアノ調律師の一家に誕生してしています。

自然に家の跡を継ぐかのように風船おじさんは国立音楽大学付属高等学校に進学します。

国立音楽大学付属高等学校を卒業後は、ヤマハに就職しサラリーマン生活を送っています。

1984年44歳の時に風船おじさんは音楽教材販売会社「ミュージック・アンサンブル」を起業され、サラリーマンから経営者に転身。

起業から一年後には日比谷公会堂で音楽会を主宰しており、その後もて定期的に音楽イベントを開催。

イベントの最後には風船を飛ばすことが恒例となりました。

この頃から風船に対しての思い入れが募っていったでしょうか?

風船おじさんはその後も事業を拡げて行きます。

1986年には、銀座に音楽サロン「あんさんぶる」を開店。

その他にも麻雀やコーヒーサロン、パブレストランも開業。

事業を拡大させるなど実業家として手腕を振るっていたと思われましたが、蓋を開けてみると赤字が重なり1990年に音楽教材販売会社「ミュージック・アンサンブル」は4億から5億の負債を抱えて倒産。

20人以上の債権者がいたとされてます。

順調に見えた音楽教材販売や音楽サロンの経営でしたが、風船おじさんは一気に借金地獄に陥って行ったのです。

多額の借金を抱え込んだ風船おじさん。

風船おじさんが借金返済のために出した計画が、ビニール風船26個を付けたゴンドラ「ファンタジー号」で太平洋横断し、アメリカはサンフランシスコに行く計画でした。

風船で太平洋横断しアメリカに行くことを実現し、借金の返済費を稼ぐという目論みでした。

風船おじさんの研究では、ヘリウムガスを詰めた風船に乗って、高度1万メートルに上昇すればジェット気流に乗り40時間でサンフランシスコに到着するという計算だったようです。

風船おじさんこと鈴木嘉和さんは元々はピアノの調律師の家系に誕生し一度はヤマハに就職するも、自分で事業を立ち上げ実業家に転身。

その後事業拡大するも、軌道に乗せることが出来なくなり多額の借金を抱えて、借金返済のためにファンタジー号で太平洋を横断するという無謀な計画を実行しています。

風船おじさん曰く、「自称冒険家」。

ファンタジー号事件の詳細を次項より見ていきましょう。

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ファンタジー号事件の詳細

ファンタジー号事件は1992年11月23日に起こっています。

当時は、元横綱貴乃花関と女優の宮沢えりさんの結婚報道が白熱する頃の出来事でした。

連日、ファンタージー号事件の風船おじさんのことが情報番組で取り上げられていましたが、やがて前述した貴乃花関と宮沢りえさんの結婚報道が浮上し、いつの間にか風船おじさんの話題も消えていきました。

話を戻しましょう。

風船おじさんは多額の借金返済のために風船で太平洋を横断する無謀な計画を立てます。

当時、風船おじさんは借金地獄に陥っていたため、ファンタジー号を作るお金もなく、支援者からの寄付金1千数百万円でファンタジー号が製作されたとのこと。

1992年11月23日はファンタジー号の上昇実験と言う名目で、琵琶湖畔にマスコミ関係者や支援者を集めました。

いよいよ上昇の実験がスタートすると、風船おじさんは牽引用のロープを外してそのまま飛び立つという暴挙に出たのです。

風船おじさんは事前にファンタジー号で太平洋を横断する計画を国土交通省に提出するも、許可が下りませんでした。

風船おじさんは騙し討ち的な手段でしか太平洋横断の計画は実行できないと考え、無謀にも上昇実験を装い、太平洋横断を決行する行動に出たのです。

1992年11月25日に風船おじさんの消息は途絶えてしまいました。

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風船おじさんの最後はどうなった?

ファンタジー号を飛び立たせてから2日後の1992年11月25日に消息が途絶えた風船おじさん。

最後に風船おじさんの姿が確認されたのは、ファンタジー号が琵琶湖から飛び立ってから40時間後の1992年11月25日午前8時半ごろのこと。

場所は宮城県金華山沖800キロメートル付近を漂っているところを海上保安庁の捜索機が、風船おじさんの姿を確認しています。

海上保安庁の捜索機によると、風船おじさんは捜索機に向かって手を振ったり座り込んだりしてSOS信号の発信はしていなかったとのこと。

ファンタジー号は高度2500メートルで最も高い時には4000メートルにも達していたそうです。

海上保安庁の捜索機は約3時間にわたり監視をしたが、風船おじさんが手を振っていたことやファンタジー号の中の物を落下させて高度を上げ、遭難信号も消えたことから、風船おじさんが飛行継続の意思があると判断して午前11時30分に捜索機の追跡は打ち切られています。

海上保安庁の捜索機は要請があれば救助したとしています。

風船おじさんからは救助の要請はなかっということです。

当初、風船おじさんの計画では高度1万メートルまで上昇すればジェット気流に乗り40時間でサンフランシスコに到着するというのもでした。

しかし実験飛行では高度4000メートル、40時間後は琵琶湖から宮城県金華山沖800キロメートル付近にまでの到達という結果になっています。

結果的に風船おじさんが最後に確認されたのは1992年11月25日、宮城県金華山沖800キロメートルで、ファンタジー号から手を振る様子が最後でした。

その後、風船おじさんんは消息が途絶えています。

風船おじさんが最後に目撃されたのが、金華山沖800キロメートルで、この時ファンタジー号は高度2500メートルで時速70㎞で北東に向かっていたそうです。

このことから、気象庁幹部の方や航空評論家はロシアのカムチャツカ半島辺りまでは到達したのではないかと推測しています。

また海上保安庁の捜索機がファンタジー号を見たときは、風船はしぼんでいたことも確認されており、24時間ないし48時間以内にはファンタジー号は着水するとの見方も出ていました。

海洋学者の三好寿氏よると、宮城県沖で着水すればアラスカの方向へ、アリューシャン列島付近での着水ならオホーツク海で親潮に乗って日本の沿岸に漂着するとの見方を示していました。

結局は、風船おじさんとファンタジー号はそのまま行方不明となり、遺骨やファンタジー号の残骸も発見されていません。

1992年11月中に風船おじさん亡くなったと推測されていますが、風船おじさんの家族が捜索願いを更新し続けてきたため、しばらくの間は風船おじさんは書類上は失踪したままの状態となっており、戸籍上は生きていることになっていました。

そして風船おじさんの失踪から7年後の2000年に、風船おじさんの妻からの「失踪に関する届け出の催促」が管報に公告され、2001年2月1日付けで失踪宣言が確定。

※失踪宣言とは、生死不明の者に対して法律上死亡したものとみなす効果を生じさせる制度

風船おじさんの失踪宣言が確定されたことで、風船おじさんは法律上に於いて死亡が確定されました。

風船おじさんの死因は明らかになってはいませんが、失踪宣言確定で死亡となっています。

多額の借金を背負って、借金返済のため風船で太平洋を横断する計画を立てた風船おじさん。

ファンタジー事件が起こるま前に、風船おじさんは5000万円または、2億円の生命保険に加入していたと言います。

しかし、家族が失踪届けを更新していたため、しばらくの間は種類上では風船おじさんは生きていたことになります。

風船おじさんの残した借金は自宅が抵当に入っていたこともあり、奥さんが懸命に返済されていたと言われています。

風船で太平洋を横断するという無謀な計画を実行した風船おじさん。

あまりにも無謀なチャレンジに、自分自身で死を覚悟の上臨んだとも憶測してしまいます。

結局は風船おじさんの最後は、宮城県金華山沖800キロメートルで確認されたのを最後に、消息を絶っています。

そして、遺体もファンタジー号の残骸も見つかっていません。

最終的に失踪宣言の確定により、風船おじさんは死亡したことに至りました。

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風船おじさんの嫁

風船おじさんは3度の結婚歴がありました。

風船おじさんが3度目の結婚をしたのは、ファンタジー号事件を起こす直前のこと。

1992年5月に3度目の結婚をしています。

三度目の結婚相手となったのは、風船おじさんの国立東京音楽大学付属高等学校時代の一年先輩の女性で、国立音楽大学のピアノ講師の石塚由紀子さんでした。

石塚由紀子さんにとっても風船おじさんは再婚で、3人の連れ子の娘さんがいました。

風船おじさんは戸籍上では石塚由紀子さんのお婿さん入り、戸籍上の本名は「石塚嘉和」が正解ですが、活動上の名前は旧制の鈴木嘉和として活動されていました。

石塚由紀子さんは風船おじさんの会社の共同経営者として、風船おじさんの活動を支えてきたようです。

2001年の風船おじさんの失踪宣言の確定を受け、事実上風船おじさんの死亡が確定されました。

そして、由紀子夫人は2016年にポルトガル人のフランシスコさんと再婚。

しかし、2017年1月に胆管癌で余命宣告を受けており、2017年4月に嫁ぎ先のポルトガルでお亡くなりになったそうです。

ちなみに、ポルトガル人のフランシスコさんは由紀子夫人の次女の夫の叔父さんに当たる方なのだそう。

次女さんの国際結婚がきっかけで知り合ったようですね。

風船おじさんのファンタジー号事件、失踪、失踪宣言、そしてご自身の再婚、闘病、波乱に満ちた由紀子夫人の人生であったことと思います。

そしてまた、風船おじさんに於いても無謀とも言える冒険、事業拡大などスケールの大きな人生でしたね。

あまりにも無謀と思えた風船おじさんのファンタジー号事件は、現在も時折語り継がれているようです。

2022年には風船おじさんをモデルにした小説「孤島の飛来人」も出版されています。

孤島の飛来人 /中央公論新社/山野辺太郎

 

風船おじさんが小説になったことを風船おじさんは空の上で喜んでいることでしょう。

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まとめ

ファンタジー号事件で世間を賑わせた風船おじさんの死因と最後はどうなったかをまとめて紹介しました。

風船おじさんの最後は、誰にも気づかれることなくファンタジー号と共に姿を消しました。

この地球のどこかに安らかに眠っていることと思います。

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