松山ホステス殺害事件で時効寸前まで警察の目をかいくぐり逃亡を続けた福田和子容疑者。
顔を整形し別人になりすまし、次から次へと男を切らさずに繰り広げた福田和子容疑者の逃亡劇は記憶に深く残る事件の一つではないでしょうか?
「七つの顔を持つ女」と言われた福田和子容疑者。
そんな福田和子容疑者の生い立ちに迫ってみました。
福田和子の生い立ち
福田和子容疑者は、2005年3月10日に無期懲役で収監されていた刑務所で倒れ、緊急搬送先の病院で死亡しています。
享年57歳。
福田和子容疑者が松山ホステス殺害事件に至るまで、どんな生い立ちを辿ってきたのでしょうか。
事件後、次から次に男を切らすことなく逃亡を続けた背景には、少なからずとも生い立ちが関係しているかのような壮絶な生い立ちがありました。
福田和子容疑者の生い立ちを見てみましょう。
福田和子容疑者は1948年(昭和23年)1月2日に愛媛県松山市に誕生しています。
もし、現在も存命だったら福田和子容疑者は2023年で75歳になっています。
福田和子容疑者の両親は和子容疑者が幼い頃に離婚。
両親が離婚後、福田和子容疑者は母親に引き取られます。
母親は福田和子容疑者を連れて、愛媛県川之江市に移り住んでいます。
幼い娘を連れて女手一つで生活するために、福田和子容疑者の母親が選んだ職業は自宅で売春宿を経営することでした。
自宅が売春宿ということで、幼いながらにして福田和子容疑者の子供心はどんな思いだったのでしょうか?
幼い娘を連れて食べて行くためとは言え、自宅を売春宿にするなど、福田和子容疑者の母親の人柄や性格はそのまま福田和子容疑者の逃亡劇に通じる何かがあるようにさえ感じてしまいます。
ただ、福田和子容疑者の母親は売春宿の経営自体は上手く行っていたようで、福田和子容疑者は母子家庭ではあったもののお金に困る暮らしぶりではなく、むしろ欲しい物は何でも買ってもらえる環境にあったようです。
やがて、福田和子容疑者の母親は漁師と再婚。
親子で瀬戸内海の来島に移り住みます。
しかし売春宿を営んでいた福田和子容疑者の母親にしたら、来島の閉鎖的な生活に耐えきれずに漁師の元から去っています。
福田和子容疑者は母親と今治市に移り住み、高校に進学します。
福田和子容疑者は高校生になると彼氏も出来で交際をしていましたが、その彼氏は交通事故で帰らぬ人となってしまいます。
彼氏の死にショックを受けた福田和子容疑者は自暴自棄になり高校3年の時に中退。
高校を中退した福田和子容疑者は直ぐに男と知り合い、18歳の時に同棲を始めます。
その男性と福田和子容疑者は、高松市の国税局長の家に強盗に入り逮捕。
その後、松山刑務所に収監されています。
1966年、福田和子容疑者の服役中に女性受刑者を強姦する松山刑務所事件が起こっています。
第一次松山抗争で逮捕された郷田会の関係者が看守を買収して女性受刑者を強姦するという事件でした。
松山刑務所事件で強姦された被害者が、当時18歳だった福田和子容疑者だったのです。
松山刑務所事件後に福田和子容疑者は高松刑務所に移監されたのですが、移監先の高松刑務所でも強姦の被害に遭っています。
福田和子容疑者は強姦の被害者でしたが被害届を出すことは出来ないまま、うやむやにされてしまったようです。
福田和子容疑者が後に松山ホステス殺害事件で指名手配され時効寸前まで逃げ切った背景には、刑務所で2度も強姦された経験から絶対に刑務所には入りたくないとい強い気持ちが警察の目をかいくぐり15年近くも逃げきることが出来たことに繋がっているようです。
福田和子の旦那
福田和子容疑者は2度の結婚歴があります。
18歳で強盗の容疑で逮捕された福田和子容疑者は、20歳で服役を終え出所。
それからほどなくして196年に元ヤクザの男と結婚します。
一男一女の2人の子供に恵まれますが、1973年にこの男性とは離婚に至っています。
1974年26歳の時に2度目の結婚をしています。
2度目の結婚でも一男一女の2人の子供が誕生しています。
福田和子容疑者は生涯で4人の子供に恵まれています。
2度目の結婚生活は、お金に苦労したようでサラ金に追われるような暮らしぶりだったとのこと。
そんな生活から逃げ出すために福田和子容疑者はキャバレーのホステスとして働き始めます。
そして1982年8月19日にキャバレーの同僚だったホステスを着物の帯締めで締めて殺害。
何も知らない夫を呼び出し、逆に同僚のホステスに襲われそうになったと正当防衛を主張し、遺体を運び出し山の中に遺棄します。
夫は自主するように説得するも、福田和子容疑者は夫と子供4人を残し、逃亡劇に走り出したのです。
※夫は強盗の共犯罪で逮捕
東京で整形し、別人になりすまし全国各地を転々とする生活が15年近くに及びました。
その間、男が途切れることはなかったとのこと。
そして時効21日に迫った1997年7月29日に逮捕に至っています。
14年と11ヵ月、述べ5459日の逃亡に終止符が打たれました。
服役中に福田和子容疑者は手紙を残しています。
私の弱さのせいで男性にたよったこともありますし
お酒も強くなりました。
逃亡中にもかかわらず
ぜいたくな生活もしたこともあります。
でも表面だけしかみられてないことが
とても悲しいのです。
どんな高級品を身につけても
心の渇きや叫びがいやされるものではありません。
私は一人っ子で育ったのですが
ははは商売に力が入っていて欲しいものは不自由なく
買ってもらえたけれど心は空虚でした。
だからね。結婚したらたくさんの子供を生んで
にぎやかな家庭を夢見ていたのですが
どこかで歯車が来るってしまって
こんな数奇な人生を送ってしまった。
何もかもなくしてしまったし
真実の愛もみつけられなかった。
matome.naver:引用
お金では満たされることのない、お金では手に入れることのできない幸せを福田和子容疑者は熟知していたのかもしれません。
ただその幸せを掴みことは叶わなかった。
自分の身勝手な思いから一人の大切な命を奪っているのですから、殺人犯の肩書きが福田和子容疑者の全てになってしまいました。
福田和子の死因
時効まで11日を残して1997年7月29日に逮捕された福田和子容疑者。
1999年5月31日に松山地方裁判所で無期懲役の判決が下されました。
そして、2003年無期懲役が確定。
2005年3月10日に収容先の刑務所内で倒れ、病院に緊急搬送されるも病院で息を引き取っています。
福田和子容疑者の死因は脳梗塞でした。
享年57歳。
病院に緊急搬送された際に、福田和子容疑者の長男が駆け付けたそうです。
病院のベットに横たわる福田和子容疑者に対して長男は、「ママは強いけん、大丈夫や。」、「ママ、ありがとね。」と声をかける中で、福田和子容疑者は息を引きとったということです。
遺骨は長男が引き取ったとのこと。
その長男は、四国で父親が経営してた小さな鉄工所を引き継いでいるそうです。
また、結婚して子供にも恵まれており、四国でひっそりと穏やかに暮らしているということです。
松山ホステス殺害事件の詳細や福田和子容疑者の息子の現在についてはこちらの記事をどうぞ↓
まとめ
松山ホステス殺害事件で時効寸前まで逃亡した福田和子容疑者の生い立ちについて紹介しました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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