宮崎勤の一族の末路まとめ!父親は自殺で母親は消息不明?

事件事故
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世間を震撼させた埼玉幼女連続誘拐殺人事件。

この残虐な事件は小児性愛者だった宮崎勤死刑囚の犯行でした。

この事件では当時4歳から7歳の4人の幼女が犠牲となっています。

当時、「死刑ぐらいでは収まらない残酷な事件」と言われ、事件の異常なまでの残虐さが浮き彫りとなりました。

歴史上稀に見ない残虐な事件の犯人となった宮崎勤死刑囚は、どのようなお生い立ちを辿ってきたのでしょうか。

また、事件後の一族の末路はどうなったか気になるところです。

この記事では宮崎勤死刑囚の生い立ちと一族の末路について紹介しています。

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埼玉幼女連続誘拐殺人事件の概要

埼玉幼女連続殺人事件の概要から紹介します。

埼玉幼女連続誘拐殺人事件は1988年から1989年にかけて4歳から7歳の4人の幼女がわいせつ目的で誘拐され殺害された残虐な事件です。

埼玉幼女連続誘拐殺人事件で犯行に及んだのは当時、無職で引きこもりだった宮崎勤死刑囚、当時26歳。

宮崎勤死刑囚はアニメファンで家宅捜査で押収されたビデオテープは6000本近くあり、部屋はビデオテープと漫画本で埋め尽くされていたと言われています。

この事件をきっかっけに、「オタク」や「ロリコン」と言った言葉が世間に知れ渡るようになりました。

またアニメに対しては批判的な見方もされるようになり、一部のアニメ雑誌は規制を受けるなどの影響が及ぼされました。

実際に宮崎勤死刑囚が起こした事件を見てみましょう。

1・1988年8月22日

 最初の犯行は1988年8月22日。

当時4歳だった少女を誘拐し殺害。

少女の遺体わいせつ行為をする様子をビデオで撮影し、少女の遺骨を少女の自宅前に置くという、信じられない犯行に及んでいます。

2・1988年10月3日

2件目の犯行は1988年10月3日。

当時、小学校一年生だった7歳の少女を誘拐し殺害。

少女の息がまだあった時にわいせつ行為に及んでいます。

3・1988年12月9日

3度目の犯行は当時4歳の幼女を誘拐し殺害。

少女が失禁したことに焦った宮崎勤死刑囚は少女の遺体を山林に遺棄しました。

少女の遺体は12月15日に全裸で発見されています。

4.1989年6月6日

4件目の犯行は1989年6月6日。

当時5歳の幼女を誘拐し殺害。

6月11日に少女のバラバラになった遺体が発見されています。

犯行声明と告白文

第4の事件まで宮崎勤死刑囚は逮捕に至っていません。

第3の事件後の1989年2月6日に宮崎勤死刑囚は犯行声明と告白文を送りつけています。

最初の事件の被害者となった少女の自宅に紙片と骨片を入れた段ボール箱を置いています。

2月10日には「今田勇子」の名前で最初の事件に関する犯行声明文が朝日新聞東京本社に郵送されています。

3月11日にも「今田勇子」の名前で朝日新聞東京本社と2件目の被害者宅に犯行声明文が郵送されました。

現行犯逮捕

宮崎勤死刑囚が現行犯逮捕のきっかけとなったのは、1989年7月23日に東京都八王子市で幼い姉妹を狙ったわいせつ事件でした。

幼い姉妹を林に連れ込み、妹を全裸にさせ写真を撮ろうとしているところを、姉妹の姉がこっそり抜け出し父親に助けを求めたのです。

すぐに駆け付けた姉妹の父親に取り押さえられ、宮崎勤死刑囚は現行犯逮捕となりました。

この逮捕がきっかけで、連続幼女誘拐殺人事件が明るみとなり、宮崎勤死刑囚は関与を認めました。

宮崎勤死刑囚の供述通りに遺体が発見され、1989年8月11日に連続幼女誘拐殺人事件の容疑で再逮捕されています。

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宮崎勤は食べた?

宮崎勤死刑囚が逮捕されてからというもの、宮崎勤死刑囚の異常なまでの犯行が明るみになって行く中で、4件目の事件では被害者の少女の腕を焼いて食べたと宮崎勤死刑囚は罪状認否で述べています。

実際に食べたかについて、検察は自己の異常性を強調するための虚偽の事実を述べたと主張。

判決では検察側の主張が認められ、宮崎勤死刑囚が主張してきた食人行為は虚偽の疑いが濃厚だと結論づけられています。

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宮崎勤の生い立ち

幼女を狙った残虐な犯行に及んだ宮崎勤死刑囚。

宮崎勤死刑囚は1997年に死刑判決が下され、2008年6月17日に東京拘置所で死刑執行されています。

享年45歳でした。

宮崎勤死刑囚の生い立ちを見てみましょう。

宮崎勤死刑囚は1962年8月21日に東京都西多摩郡五日市町小和田(現在のあきる野市小和田)に誕生しています。

宮崎勤死刑囚の家族構成は、祖父、祖母、父親、母親、妹が二人の7人家族。

宮崎勤死刑囚は長男として誕生しています。

宮崎勤死刑囚の曽祖父は村会議員をされていたとのこと。

祖父もまた町会議員をしており、地元の名士として有名な家柄に誕生しています。

宮崎勤死刑囚の父親は西多摩郡五日市町でローカル新聞を発行している「秋川新聞社」を経営していました。

秋川新聞社は自宅と事務所が併設されてており、宮崎勤死刑囚の自宅は地元でも豪邸で有名でした。

裕福な家庭環境に育った宮崎勤死刑囚ですが、お金には何不自由のない暮らしでも、家庭の雰囲気は穏やかではなかったようです。

宮崎勤死刑囚の父親は仕事ばかりで家庭を顧みる父親ではなかったとのこと。

家庭内でも父親と宮崎勤死刑囚は関係のいい親子と言う訳ではなかったようです。

父親が居間に入ってくると、宮崎勤死刑囚は自室に逃げるようにしてこもったそうです。

また母親と祖母は折り合いが悪く、長男である宮崎勤死刑囚の育児を巡って陰湿な対立があったそう。

そのためか、母親は宮崎勤死刑囚に愛情を注ぐことはあまりなかったようです。

そして、母親は常に世間体を気にするような人だったと言います。

両親は経営する新聞社の仕事で忙しくしていたため、宮崎勤死刑囚の面倒は主に祖父が見ていました。

また、宮崎勤死刑囚のお世話をするシッターを雇っています。

宮崎勤死刑囚のシッターは30代の知的障害を持った男性が担当していたと言います。

宮崎勤死刑囚の生い立ちは代々地元の名士の言えrに誕生し、父親は新聞社を経営する裕福な家庭に育っていました。

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宮崎勤の障害

裕福な家庭に誕生していた宮崎勤死刑囚ですが、強いコンプレックスを抱いていました。

それは、両側先天性橈尺骨癒合症と言う珍しい病気で、症状は手首を回して手の平を上に向けるという動作が出来ない状態だそう。

当時の日本では150程の症例しかなく、手術をしても完治するのは100人に一人と言われてことから、宮崎勤死刑囚の両親は積極的には治療をさせなかったと言われています。

また、息子の障害に対して両親は恥と感じており、宮崎勤死刑囚の手の障害を出来るだけ人目につかないようにしていたそうです。

この障害があったことで、宮崎勤死刑囚は幼稚園でのお遊戯などで周囲からからかわれることが多かったとのこと。

障害にコンプレックスを持っていた宮崎勤死刑囚ですが、小学中学は成績もよく、常に上位だったため母親にとっては自慢の息子だったようです。

また中学1・2年では柔道部に所属、中学3年生になると将棋部に所属していますが、勝負に負けると悔しがっており負けず嫌いの性格がむき出しになっていたとのこと。

高校は自宅から片道2時間かかる遠くの男子校に進学。

この男子校は大学の付属の高校でエスカレーター式で大学に進学できる高校でした。

宮崎勤死刑囚がこの高等に進学したのは、手の障害を気にしてからだったことを両親は気づいていませんでした。

両親は英語の教師になるために、この高校に進学したと思っていたのです。

高校に進学した宮崎勤死刑囚は徐々に成績も下がり、エスカレーター式の大学進学も叶わず短大に進学。

短大を卒業後は叔父のコネで就職するも、勤務態度や評判が悪く1986年依願退職に至っています。

その後は、家業の新聞社を手伝うなどしていたようですが、この頃からアニメやビデオに興味を持つようになっていったようです。

そして1988年5月に宮崎勤死刑囚の面倒をよくみていた祖父が他界します。

祖父の死がショックだった宮崎勤死刑囚は、両親に対して殴る蹴るの暴行を繰り返すようになり、犬の首を針金で締めるなどの行動を取るようになっていきました。

そして祖父の死から3か月後の1988年8月22に最初の犯行に及んでいます。

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宮崎勤の一族の末路

幼女連続誘拐殺人事件では、被害者や遺族の人生が大きく変わってしまいました。

一方、宮崎勤死刑囚一族の人生も大きく変わってしまいました。

宮崎勤死刑囚の父親は事件後、豪邸だった自宅を売却。

自宅を売却した代金を被害者遺族に支払う段取りを付けてから、多摩川にかかる神代橋から身投げをして自ら命を絶ちました。

宮崎勤死刑囚の父親が自ら命を絶ったのは事件から4年後のことで、1997年に宮崎勤死刑囚に死刑判決が出る前でした。

父親は息子に死刑判決が下されたことや、宮崎勤死刑囚が刑死したこともしらないままこの世を去っています。

宮崎勤死刑囚は事件後、父親に一つの事を要求していました。

それは私選弁護士を付けて欲しいということ。

しかし父親は息子の要求を拒否。

宮崎勤死刑囚には、国選弁護士が付けられました。

国選弁護士の費用は国費から賄われることで、宮崎勤死刑囚の父親に対しては私選弁護士を付けるだけの経済力があるにも関わらず、私選弁護士を付けなかったことで批判的な目が向けられました。

宮崎勤死刑囚には二人の妹がいました。

一人の妹は結婚間近で婚約者がいましたが、事件発覚後に婚約破棄となっています。

もう一人の妹は当時看護学校で学んでいましたが、事件後に自主退学しており看護師の道を断念せざるを得ない状況になってしまってます。

事件当時、20代だったと思われる宮崎勤元死刑囚の妹も、事件から35年が経ち50代となっているかと思います。

世間の目から逃れるような生活を強いられてきたことは容易に想像がつきますね。

宮崎勤死刑囚の父方の叔父は5つの会社の役員をしていましたが、事件後は全ての会社の役員を辞職しています。

もう一人の父方の叔父は宮崎を名乗ることで身内がバレることを恐れ、家族を旧制に戻すことを目的で離婚に踏み切っています。

また、母方の叔父には息子が二人おり(宮崎勤死刑囚の従兄弟にあたる)、一人は警察官でもう一人は高校教師をしていましたが、いずれも自主退職しています。

宮崎勤死刑囚が起した事件では、家族のみならず叔父家族にまで大きな影響が与えられました。

一人の起こした重大な犯行は多くの人の人生を狂わせてしまったのです。

当時の鳩山邦夫法務大臣の命令により、2008年6月17日に宮崎勤死刑囚の刑が執行されました。

刑の執行後、母親は宮崎勤死刑囚の遺体と対面。

結局は遺体の引き取りは拒否され、遺体の処置は拘置所が行っています。

宮崎勤死刑囚の遺骨は東京都豊島区雑司ケ谷霊園の一角にある、引き取り手のない獄死者や死刑囚の無縁仏として、法務省の納骨堂に納められました。

宮崎勤死刑囚は最後まで被害者や遺族に謝罪の言葉はなかったとのこと。

刑の執行が行われるまで興味があったことや気にしていたことは、アニメのことだけだったそうです。

宮崎勤死刑囚の母親は東京拘置所で息子の遺体と対面後、そのまま消息が途絶えたということです。

また、宮崎勤死刑囚の実家は現在は更地になっているそうです。

宮崎勤元死刑囚の起こした事件で家族や一族の大変な思いをしながら生きなければならなくなりました。

あまりにも壮絶な家族模様に宮崎勤元死刑囚の家族に注目が集まりますが、はやり一番辛い想いをしたのは被害者とその遺族です。

ある日突然に何の罪もない人が事件に巻き込まれ、尊い命が奪われるこはあってはなりません。

刑の執行や自らが命を絶っても全てが解決されることはありません。

二度とこのような事件が起きないことを説に願っています。

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宮崎勤の肉声

2017年10月7日にフジテレビ系で放送された「衝撃スクープスペシャル30年目の真実・東京埼玉連続幼女誘拐殺人犯、宮崎勤の肉声」という再現ドラマの中で、宮崎勤元死刑囚の肉声がところどころに散りばめられています。

1時間40分以上の長いドラマとなっていますが、要所要所で宮崎勤元死刑囚の肉声が出てきます。

まとめ

幼女連続誘拐殺人事件の犯人、宮崎勤元死刑囚の生い立ちや一族の末路について紹介しました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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