過去には世間を震撼させた事件が数々ありますが、その中でも印象に残るのが2001年6月8日に起きた大阪池田小学校事件です。
犯人となった宅間守死刑囚は既に刑が執行されこの世を去っています。
宅間守死刑囚については、凶悪犯で反省のかけらもない身勝手などうしようもない人物像としての印象だけが残っています。
この記事では池田小学校事件を引き起こした宅間守死刑囚の生い立ちと父親と母親はどんな人だったのについてまとめています。
宅間守死刑囚の生い立ちについて
宅間守死刑囚のプロフィールです。
- 宅間守
- 生年月日: 1963年11月23日
- 死没年月日: 2004年9月14日(享年40歳)
- 出身地: 兵庫県伊丹市
- 家族構成: 父親、母親、兄
宅間守死刑囚は兵庫県伊丹市の出身。
もし、2022年現在宅間守死刑囚が生きていたら59歳という年齢です。
宅間守死刑囚は工場の街として知られる伊丹市で、父親が工場勤務する一般家庭に生まれています。
宅間守死刑囚は先祖代々旧薩摩藩の下級武士の家系だったとことで、この家柄は代々誇りとしていたそうです。
また、ご先祖様には法律や警察関係の職務についていた人もいたとのこと。
宅間守死刑囚の曽祖父は明治維新の際にちょんまげを切り落とし、その後警察官として任務に当たっていたと言います。
宅間守死刑囚の父親は若くして父親(宅間守死刑囚にとって祖父)を亡くしたため、小学校卒業と同時に働き出して家族を養ってきた苦労人のようです。
宅間守死刑囚の先祖は下級武士と言うことで、代々男の子は「真のサムライ」と教えられ、厳しい修身教育をされてきたとのこと。
宅間守死刑囚も男の子とのことで厳しく育てられたようですが、宅間守死刑囚は物心つく幼い頃から問題児の要素を存分に発揮していたのです。
3歳の時に国道の真ん中を三輪車で走行し、渋滞を引き起こしています。
小学生になると強い児童からイジメを受けていたと言いますが、それに対して自分よりも弱い物には徹底的にイジメるという陰湿な一面を持っていました。
中学生になってもその性質は変わらず、弱い物イジメを繰り返していたと言います。
また、新聞紙で猫など生き物を包んで火を付けて焼いていり、拾ってきた猫を浴槽に沈めてしまったり。
事件後逮捕されてから精神鑑定医には、学生の時に好意を持っていた女子生徒のお弁当に精液をかけたことを告白。
すでにこの頃の宅間守死刑囚は悪行を繰り返していたのです。
幼い頃から悪行を働いてきた宅間守死刑囚。
そんな宅間守死刑囚ですが、実は小学校高学年になると大阪教育大学付属池田中学校の存在を知り、池田中学校の受験を目指し勉強に励んでいた時期がありました。
そのきっかけとなったのは、小学5年生の時に女子からパイロットの叔父の話を聞きつけ、パイロットに憧れを持ったと言います。
パイロットに憧れた宅間守死刑囚は一時的ですが勉強に励んでいます。
しかし、父親と母親は反対。
父親は、「付属大中学に入る子は小さいころから家庭教師をつけている。家は機械工やから違うんだぞ。」と説得。
それでも宅間守死刑囚は付属中学校に願書を貰いに行きます。
願書は内申も必要であったことと、母親から「そんなん通るはずがないに受けるだけ無駄や。」と否定され、宅間守死刑囚は受験を諦めた経緯があります。
高校は、兵庫県立尼崎市内の工業高校に進学しています。
しかし、1981年3月に高校2年生で中退。
すぐに定時制の高校に編入するもすぐに退学。
その後、ガソリンスタンドでアルバイトを経てから18歳の時に航空自衛隊に入隊しています。
自衛隊は宅間守死刑囚の夢でもありました。
高校の時は「俺は自衛隊に入る!」と突然大声で叫んだりしていたそうです。
しかし、自衛隊も約一年後に除隊となっています。
除隊の理由については、当時家出をしていた少女を下宿させてみだらな行為をしたとして除隊となっています。
自衛隊を除隊されてからの宅間守死刑囚はトラックの運転手や引っ越し業者など職業を転々とします。
宅間守死刑囚の生活は更に荒んでいき、家では家族に暴力をふるい、外でも障害、暴行を繰り返すようになっていました。
宅間守死刑囚が最初に逮捕されたのが1984年11月のことで、21歳の時でした。
マンション管理会社に職を得た宅間守死刑囚はマンションの女性住人宅に集金に行った際に、女性の部屋に入り込み顔面を数回殴るなどして強姦する事件で逮捕に至っています。
この時は懲役3年の実刑判決を受けています。
出所する際に、宅間守死刑囚の父親は宅間死刑囚の私物を売り払いって現金化。
その現金を守死刑囚に手渡して勘当を言い渡しています。
出所後の宅間守死刑囚はダンプの運転手の仕事にこぎつけますが、この時に煽り運転で死亡者を出す事故を2件も起こしています。
宅間守死刑囚の気性の荒い性格がよく表れています。
宅間守死刑囚は存在するだけで危険人物そのものでした。
現在もこの世に存在していたらもっと恐ろし事件事故を起こしていたかもしれません。
宅間守の父親
宅間守死刑手の父親は前述した通り、兵庫県伊丹市で機械工として働いていました。
武士だった先祖を誇りにしていましたが、宅間守の父親は頑固で厳しい父親であったようです。
頑固で厳しいだけならまだ良かったのですが、この父親は家に生活費を入れずにお酒ばかり飲んでいたとのこと。
また、家の中では包丁を振り回したり、家族全員に暴力を振るうなどの行為が日常茶飯事だったそうです。
かなり家庭の中は荒れていました。
宅間守死刑囚も家では父親の暴力に耐えていたと言います。
石で殴られることもあったのだとか。
武士の子孫ということでしたが、宅間守死刑囚の父親もまた育児放棄されて育った背景があったそうです。
父親からの暴力に耐えていた宅間守死刑囚ですが、あまりにも酷かったため、父親が寝ている時に包丁で刺して殺してやろうと思ったことも幾度となくあったとのこと。
宅間守死刑囚と父親の関係は、守死刑囚が自衛隊を除隊されたことで更に悪化。
取っ組み合いのケンカも絶えなかったようです。
池田小学校事件後の宅間守死刑囚の父親は、世間からも批判を浴びながら晩年まで生家に住み続けたと言います。
事件を起こしてから、父親は幼少期からずっと悪行を続けてきた宅間守死刑囚に悩んできたようで、自分で息子を手にかけて一家心中も考えたこともあったそう。
しかし、どうしても自分の息子に手をかけることが出来ずにいたところ、事件を起こしてしまい間に合わなかったとに亡くなるまで後悔の念を抱いていたそうです。
事件後、母親は精神的に病んで精神病院に入院。
父親は乱酒を繰り返し入退院を繰り返しながらずっとこの家で一人暮らしを続けています。
家は阪神断震災の際に傾き、雨漏りもひどく畳は抜け落ちる寸前、足の踏み場をもない状態でずっと、亡くなるまで住み続けました。
宅間守死刑囚の父親は、2020年4月に肺がんのため88歳でこの世を去っています。
宅間守死刑囚は拘置所の中で父親に対して、「宮崎勉死刑囚の父親のように自殺すればいいのに。」という言葉を残しています。
宅間守死刑囚の親子関係は破綻を通り過ぎ、もうどうしようもなくなっていたと推測が出来ます。
そこには親子の愛情など木っ端微塵の欠片も無かったことでしょう。
それよりも深い憎悪、厭悪、嫌悪、憎しみ、、、、このような言葉では言い現わせないほどの感情に達していたことは否定出来なかったことと思われます。
それほどに歪んでしまった親子関係。
父親は、死ぬまで事件を防ぐことができなかったことへの後悔、そして被害者へのせめてもの償いの思いから、荒れ果てた家でひとり暮らし続けたと言います。
世間から非難の目で見られながらの人生。
最後に宅間守死刑手の父親は親族に、「おれの人生は何やったかの?」と言い残してこの世を去ったと言います。
酒に溺れ、家族に暴力を振るったことに反省はあったのでしょうか?
宅間守死刑囚の父親が家族を持った段階で、家族に対する愛情や父親としての自覚が少しでもあったなら、この悲しく無残な事件は起きずに済んでいたかもしれません。
宅間守死刑囚の生い立ちからして、第三者的には「身から出た錆」ということで納得が出来そうなところですが。。。。
改めて感じることは、家庭環境がいかに大切かということ。
それは、家が貧乏であるとかお金持ちであることは一切関係なく、肝心かなめなのは「愛情」。
これに尽きると思います。
親が子供に対して「愛しい」と思う感情があれば絶対にこのような悲しく、悲惨で無念な事件は起こらないものと信じています。
宅間守死刑囚の父親はある意味、死刑よりも更に思い罪を背負ったことになった人生ではなかったでしょうか。
それ程に、親になることの責任は重いということです。
宅間守の母親
宅間守死刑囚の母親についてです。
宅間守の母親は、家事育児が苦手な女性だったと言います。
家事の殆どを父親が担っていたとの情報もあります。
現代風で言う一種のネグレクトだたのでは?との説があります。
ネグレクトとは一言で言い現わすと「育児放棄」。
宅間守死刑囚の母親は守死刑囚を身ごもった時に、「あかんわ、これ、堕ろしたいねん私。あかんねん絶対。」と語っていたとのこと。
「虫の知らせ」ではないかもしれませんが、何か、何かを感じ取っていたのかもしれません。
結果論でしかありませんが、結局のところ宅間守死刑囚の母親は悪魔を身ごもったと言っても過言ではありません。
宅間守死刑囚の母親は守死刑囚に対して母乳を与えることさえ嫌がったと言います。
出産後のマタニティーブルーズだったかもしれませんが、それにしても母親の感情は尋常ではなかったことは確かなようです。
愛せない我が子。
夫(宅間守死刑囚の父親)との関係も大きく影響されれていたでしょうか?
我が子に愛情を持てないまま時が過ぎていきました。
宅間守死刑囚がパイロットに憧れて大阪大学付属中学校の受験を希望した際に母親の口から出た言葉は、「お前なんか生まれてこなければ良かった。」でした。
この母親の言葉は事件後の宅間守死刑囚の家宅捜索の際に押収されたノートに書き留められていたと言います。
物心つくころから悪行を働いていた宅間守死刑囚。
中学生になる頃には悪行もエスカレートしていきました。
確かに親としては心穏やかではなかったことでしょう。
しかし、我が子に絶対に言ってはいけない言葉を、宅間守死刑囚の母親は言ってしまったのです。
取り返しがつきません。
宅間守死刑囚は親子喧嘩になると、「ヤクザを使ってお前らの生活をメチャクチャにしてやる!」、「死ぬまで苦しめてやる!」との暴言を度々吐いていたようです。
宅間守死刑囚の望みが唯一叶ったとしたら、親に対しての「死ぬまで苦しめてやる」に尽きるでしょうか?
宅間守死刑囚の両親は、死ぬまで息子の犯した罪に苦しんだことは紛れもない事実です。
宅間守死刑囚の母親は事件後、精神的に病んでしまい数十年精神病院に入院していたと言います。
そして、2016年にこの世を去っています。
決して子供は言ってはいけない言葉を勢い余ってか言ってしまった一言。
「お前なんか生まれてこなければ良かった。」、、、、、。
母親は最後までそう思いながらこの世を去っていったことでしょう。
そして沢山の方が心の中でそう叫んでいたかもしれません。
心の叫びだけでは収まらず、大きな声で発していたことでしょう。
「お前なんか生まれてこなければ、、、、、、、。」
改めて親になることの責任の重さを感じる次第です。
宅間守の兄
宅間守死刑囚にはお兄さんが一人いました。
兄と宅間守死刑囚の二人兄弟。
宅間守死刑囚のお兄さんは、事件後に弟の犯した罪によって自殺を遂げたそうです。
表向きには「事業の失敗」との理由を偽り、小刃で首を斬っての自殺だったと言います。
年齢は40代前半だったとのこと。
宅間守死刑囚のお兄さんは事件後、宅間守死刑囚の存在に相当悩んでいたとのことで、思い詰まっての自殺であったことが伺えます。
犯罪者の兄弟と言うことで、世間からは白い目で見られることは勿論、結婚ともなれば尚更世の目が気になったことでしょう。
宅間守死刑囚のお兄さんについては、特に問題が取り上げられている訳ではないところを見ると世間一般的に言う「まともな人」であったのかもしれません。
それ故に自死という道を選択してしまったのかもしれません。
ハッキリと言えることは、宅間守死刑囚のお兄さんも一人の犠牲者であったと言うことでしょうか。
あまりにも、無残で無念でどうしようもない結末に終わっています。
まとめ
池田小学校事件で世間を激震させた宅間守死刑囚の生い立ちと父親、母親についてまとめました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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