2011年の東日本大震災の予知夢を的中させたとして注目を浴びているたつき諒先生。
東日本大震災の他にも尾崎豊さんやダイアナ妃の死の予知夢を的中させています。
そんなたつき諒先生は一体何者なのでしょうか?
未来が見える霊媒師?
この記事ではたつき諒先生につてい何者なのか紹介しています。
たつき諒は何者?
東日本大震災や尾崎豊さん・ダイアナ妃の死を予知夢で的中させていたたつき諒先生。
たつき諒先生は未来の見える霊媒師なのでしょうか?
たつき諒先生は何者かと勘ぐってしまうほど、たつき諒先生の予知夢の的中率は凄まじいものを感じます。
たつき諒先生は、元漫画家。
オカルト系の漫画家ではなく、王道の少女漫画家でした。
たつき諒先生は、1999年に漫画家を引退されています。
そして、1999年に引退したたつき諒先生がなぜ今頃になって注目されているのか?
たつき諒先生が注目を浴びるようになったのは、一冊の漫画が発端でした。
その漫画は1999年に出版された「私が見た未来」。
1999年に出版された「私が見た未来」の表紙には、「2011年3月大震災」と記載されていたのです。
こちらの画像は初版「私が見た未来」の復刻版として2021年10月に出版されたモノになりますが、初版の表紙を再現しています。
1999年の時に「大災害は2011年3月」と記されていることがおわかりいただけるかと思います。
たつき諒先生の「私が見た未来」の初版は、今ではお宝物として価値が上がっており中古本で10万円以上の値段がついているのです。
私が見た未来 /朝日ソノラマ/竜樹諒
今となっては結果論ですが、それにしてもちょっと恐ろしですよね。
東日本大震災を予知夢で的中させたたつき諒先生ですが、元々は霊感は持ち合わせていなかったとのこと。
ここでたつき諒先生のプロフィールを紹介しておきます。
- 生年月日: 1954年12月2日(2022年で68歳)
- 出身地: 神奈川県横須賀市
- 学歴: 横浜市立横浜商業高校卒業
- 血液型O型
- 趣味: 旅行
たつき諒先生は、恵まれた家庭環境に育ったようです。
と言うのも、中学生の頃に歌手になりたいと思い、神奈川の自宅から東京都内の歌謡スタジオにレッスンに通っていたことがありました。
しかし3ヵ月で歌手になることに見切りをつけ、次にチャレンジしたのがタレントを目指したとこで中学2年生の時に東京宝映タレント芸術学に入学しています。
こちらも長続きはしませんでしたが、その後もフィギュアスケートを習うなどある程度金銭的に余裕がなければ出来ないような習い事をされていたということで、裕福な家庭環境で育ったことが伺えます。
たつき諒先生は高校を卒業すると同時に漫画家の道を志していますが、元々は漫画家になりたいとは思っていなかったとのこと。
しかし17歳の時に交通事故に遭い、高校を卒業した後に家で出来る仕事で生きた証を残せる仕事は内科と考え始めたそうです。
そんな時に偶然目にしたのが、お兄さんが買ってきた石ノ森章太郎さんの「マンガ家入門」でした。
「マンガ家入門」を見て「これだ!」と直感したたつき諒先生は、道具を揃え素人丸出しの漫画を描いては出版社に持っていくということを繰り返しました。
その間はプロの漫画家のアシスタントも同時に行っていたそうです。
そうしているうちに秋田書店さんから声がかかり、「月刊プリンス」から漫画家デビューを果たしました。
この時「花とゆめ」の少女漫画誌で賞の受賞が決まっていたそうですが、デビュー出来るという保証はなかったため、秋田書店さんからのお誘いを受けた経緯があるよです。
たつき諒先生はデビューした頃から見た夢を日記に書き留めておくようになったと言います。
印象的な夢を見ると目が覚めても忘れずにむしろハッキリと記憶に残っていく夢がいくつかあることに気づいたそうです。
もしかしたら、これは何かの意味があるかもしれないと少しづつメモに残すようになりました。
最初はメモに残す程度でしたが、日記に書き留めるようになったのは1985年からのこと。
夢日記に書いたこと全てが予知夢として的中した訳ではないとのこといですが、冒頭でも述べたように尾崎豊さんの死や阪神淡路大震災などの予知夢を見ていました。
そしてたつき諒先生が一躍有名になったのは、都市伝説で関暁夫氏が東日本大震災を予言した漫画家としてテレビで取り上げたことで、瞬く間に話題の人となった経緯があったのです。
たつき諒先生は1999年に「私が見た未来」を出版してから、漫画家は引退されました。
引退の理由は漫画のストーリーを考える事が苦手であったことと、締め切りなどに追われ体力的に限界を感じたということです。
漫画家を引退してからのたつき諒先生は、母親が病院に勤務していた影響もあり、医療事務の仕事や住環境福祉コーディネーターなどの仕事に従事されたそうです。
以外にも普通の人生経験もされていました。
たつき諒の前世はサイババの娘だった?
たつき諒先生には、人生の転換点となった出来事があったそうです。
その人生の転換点となったのがインド旅行だったとのこと。
たつき諒先生は漫画家として最後になった1998年にインド旅行に出かけています。
このインド旅行でたつき諒先生は覚醒したと言います。
インド旅行の目的は当時、日本でも話題となりテレビでも取り上げられていたサイババに会う事でした。
サイババはインドの聖者で、当時指輪など色々な小物を空中から自在に取り出せる超能力を持っているとして世界中から注目されていました。
たつき諒先生はサイババが注目される前から夢に出てきてたと言います。
サイババを始めて見た時に「夢に出てきた人だ。」と直感。
「どうしてこの人が私の夢に出てきたのか?」
と不思議に感じて、これは漫画のネタになるかもしれない、この人に会えば何かわかるかもしれないと、サイババに会いにインドに向かいました。
またたつき諒先生とサイババの手相の運命線がまったく同じだったとのこと。
そして、インドに行って分かったことは、たつき諒先生の前世はサイババの娘であたことが判明したと言います。
ダルシャンと言うサイババの元に人々が集まる場所に行った時に、たつき諒先生は天の声を聴いたそう。
それは、サイババが「I Know」(あなたのことを知ってるよ。)とハッキリと聞いたと言うのです。
前世でたつき諒先生の父親だったと言うサイババはイギリスの新聞記者をしていたそうです。
父親の仕事の関係でクウェートに移住した一家。
ここで前世のたつき諒先生は12歳でマラリアにかかって亡くなってしまったとのこと。
前世の父親のサイババは娘が死んでいく姿をたた見ていることしか出来なかったそう。
その後娘はどうなったのだろうかと、生まれ変わったサイババはずっと心の中に娘を想う気持ちを持っていたことで、こうしてインド旅行で前世の娘のたつき諒先生との再会に繋がったということです。
何を言ってるの?と思う方もいるでしょう。
これは夢に出てきたことで、サイババの前世の名前であったり前世の名前や生年月日もハッキリと出ていたのでメモに残っているそうです。
その他にもインド旅行では不思議な体験をされており、結果的にこのインド旅行がたつき諒先生の転換点になっているそうです。
そしてこのインド旅行から帰ってきた頃から、「大震災は2011年3月」という夢を始め、災害や人が事故で亡くなる夢を頻繁に見るようになったということです。
たつき諒の予言について
たつき諒先生は1999年に自分が見た夢を元にした漫画「私が見た未来」を出版されてから引退をされています。
そして、この「私が見た未来」の表紙のイラストを描いた時期は、心身ともに死ぬほど辛かった時期で表紙があのようなイラストになったと言います。
また、2020年に都市伝説の関暁夫氏によって「私が見た未来」が紹介された際には、あまりにも話題となり、2021年にはたつき諒先生になりすました人物が雑誌のインタビューに答えていたことも判明。
たつき諒先生はインターネットは殆ど見ることがなく、携帯もガラケーとのこと。
先生のなりすましが現れたことは、姪っ子や甥っ子に教えてもらったそうです。
それからと言うもの、先生は今まで以上に静かに生活をされているとのこと。
また、たつき諒先生のように大震災などの予知夢を見たという人が実際にたくさんいるそうです。
たつき諒先生は予知夢は「警告」であるとの見解を示しています。
予知夢には「災難を避ける」、「災難を小規模にする」手段であると述べています。
たつき諒先生の復刻版の「私が見た未来」の中では、2025年7月5日に大災害が起こる予知夢について書かれています。
2025年7月5日の大津波の場所についての予知夢は、復刻版の「完全版・私が見た未来」で詳しく描かれています。
私が見た未来 完全版 /飛鳥新社/たつき諒
必要以上に不安を煽っている訳ではなく、常に災害について準備をしておくことの大切さを訴えています。
地震大国でもある日本で暮らしていく上で、やはり地震とは付き合って行かなければならないのも現状かと思います。
その時、いかに災難を最小規模に抑えることが出来るか、そんなメッセージをたつき諒先生は発信されているようです。
まとめ
東日本大震災を予知夢で的中させたたつき諒先生は何者なのかについてまとめました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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