窪島誠一郎の生い立ちが壮絶!父親は水上勉で実母は自死していた!

作家
松村雄基
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2022年の24時間テレビで窪島誠一郎さんのドキュメンタリードラマが放送されます。

窪島誠一郎さんを知らない方も多いと思いますが、「無言館」を設立された方なんですね。

窪島誠一郎さんの生い立ちはとても壮絶なものでした。

そして、その生い立ちを紐解いていくと更に衝撃の真実が明らかになります。

この記事では「無言館」の設立者、窪島誠一郎氏の生い立ちや経歴、父親と実母についてまとめています。

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窪島誠一郎の生い立ち

窪島誠一郎さんは、長野県上田市に小さな美術館「無言館」を設立された方です。

無言館は戦争で亡くなった画学生の遺作を集めた美術館で1997年に設立されました。

無念にも戦争で亡くなった画学生の作品を集めた美術館ということで、その名も「無言館」。

なんか、じんと来るものがありますね。

無言館には、戦争に出征する直前まで作品を描き続けていた画学生の作品が展示されています。

その作品は未完成のものやキャンバスが傷ついているものなど、画学生の無念さが伝わってくるようだとのこと。

私は、まだ無言館に行ったことはありませんが、是非、訪れてみたい場所の一つです。

窪島誠一郎さんは、画学生の遺作品を集めるために全国を走り廻ったと言います。

そんな窪島誠一郎さんの生い立ちを見てみましょう。

窪島誠一郎さんは1941年11月20日生まれで東京都出身です。

太平洋戦争が始まる直前に誕生しています。

参考までに太平洋戦争が始まったのは、1941年12月7日。

終戦を迎えたのは、1945年9月2日です。

窪島誠一郎さんは、2022年で81歳。

窪島誠一郎さんは2歳の時に、戦争と生活苦のために養子に出されます。

また戦争と生活苦が重なってか夫婦仲も悪くなり、実の両親は離婚に至っています。

養父と養母となったのは、明治大学前で靴の修理屋を営んでいた夫婦でした。

窪島誠一郎さんの父親は当時、息子の養子先を知らされていなかったとのこと。

次第に戦争が激化を増し昭和20年4月に東京大空襲が襲います。

窪島誠一郎さんの実の父親は、空襲で息子は亡くなったと思っていました。

やがて終戦を迎え、東京にも平和が戻りつつあった頃のこと。

窪島誠一郎さんは中学生になりました。

中学生になった窪島誠一郎さんは、両親と自分の顔の違いに違和感を感じるようになっていました。

そして、両親と血液型が違うことが発覚し、養父と養母は実の親ではない事実を知ったのです。

窪島誠一郎さんはやがて自分の本当の親を探し始めます。

実の父親を捜すこと20数年あまり。

1977年6月窪島誠一郎さん36歳の時に、実の父親を捜しあてたのです。

実に37年ぶりの親子の再会でした。

窪島誠一郎さんの実の父親は、作家の水上勉氏。

言わずとも知れた日本を代表する小説家で、直木賞作家としても有名です。

それまで、窪島誠一郎さんは実の父親が小説家の水上勉氏であったことは露とも知らずでした。

そして、実は窪島誠一郎さんは水上勉氏の熱狂的な愛読者でもあったのです。

特に愛読していたのが、水上勉氏の「飢餓海峡」で、作品にも出てくる北海道の雷電岬は実際に足を運ぶほど愛読されていました。

後に窪島誠一郎さんは雷電岬の詩集を出版するのですが、その詩集の題名は「雷電」と名付けています。

また、窪島誠一郎さんの奥さんは雷電岬の出身だそうです。

偶然を通り越して、運命的なものを感じますね。

更に、驚くことに窪島誠一郎さんが20数年に渡り探し続けた実の父親の居場所は、窪島誠一郎さんが住んでいた場所から歩いて5分程度の場所であったことです。

自分の実の父親が有名作家の水上勉氏であったと知った時の感情はどんなものだったのでしょうか?

しかも、窪島誠一郎さんは実の父親の水上勉氏の熱心な読者でもあったのです。

水上勉氏は2004年9月8日に85歳で肺炎により、長野県東御市で亡くなられています。

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窪島誠一郎の経歴

窪島誠一郎さんは2歳頃から養父と養母によって育てられました。

この夫婦からは大切に育てられたようで、この当時高校にも進学しています。

窪島誠一郎さんが進学した高校は海城高等学校。

当時海城高等学校は私立の男子校でしたが、平成23年より中高一貫校となっています。

偏差値は60代後半と難関校となっています。

高校を卒業してからの窪島誠一郎さんは、印刷工やホテルの従業員、喫茶店のボーイ、珠算学校の手伝いなどあらゆる仕事に従事してお金を貯めます。

そs高校を卒業してからの窪島誠一郎さんは、印刷工やホテルの従業員、喫茶店のボーイ、珠算学校の手伝いなどあらゆる仕事に従事してお金を貯めます。

そして21歳の若さでスナックを経営し、独立しています。

更に支店も出すなどし、経営を軌道に乗せていきます。

●1964年: 小劇場「キッド アイラック アート ホール」を設立

●1979年: 信濃デッサン館設立(現KAITA EPITAPH)

●1997年: 無言館設立

●1998年: 無言館物語りで第46回サンケイ児童出版文化賞受賞

窪島誠一郎さん2022年現在も作品の収集をしたり、修復をするなど精力的に活動されているとのこと。

無言館

【住所】 長野県上田市古安曽字山王山3462

【TEL】0268-37-1650

【営業時間】9:00~17:00

【休館日】火曜日

【入館料】大人:1000円、高校生大学生:800円、小学生中学生:100円

窪島誠一郎さんが館長を務める無言館の観光情報はこちらで詳しく紹介されています。

無言館の観光情報

窪島誠一郎の実母

窪島誠一郎さんの実の父親は直木賞作家の水上勉氏。

窪島誠一郎さんの実の母親、つまり水上勉氏の妻は加瀬益子さん。

水上勉氏と妻の加瀬益子さんは同棲からの結婚でしたが、戦争が原因で生活苦となり、窪島誠一郎さんを養子に出さざるを得ない状況でした。

水上勉氏と加瀬益子さんの長男として誕生した窪島誠一郎さんは、2歳で養子に出されます。

長男を養子に出した村上勉氏と加瀬益子さんは、仲たがいとなり離婚。

やがて二人はそれぞれ再婚をしています。

窪島誠一郎さんが実母に再会したのは昭和52年のこと。

実の父親の水上勉氏と再会後のことです。

窪島誠一郎さんに再会した時の実母は、息子を捨てたことを後悔しひたすらに謝り続けたと言います。

実母と窪島誠一郎さんの再会後は一度だけホテルで食事をしたそうですが、それが最後で二度と会うことはなかったと言います。

これは、窪島誠一郎さんが実母の会いたいという要求を拒否していたからなんですね。

実母は、窪島誠一郎さんに「会いたい」と書かれた手紙を何度も出し続けていたのです。

しかし窪島誠一郎さんは、実母からの手紙に返信することはありませんでした。

その後、窪島誠一郎さんは実母の死を知らされます。

当初は心臓発作で亡くなったと聞かされていましたが、実際は自殺だったのです。

1999年(平成11)6月末に81歳でした。

実母が亡くなると直前に、窪島誠一郎さんの元には実母から落花生が送られていたとのこと。

落花生は、実母の出身地の千葉県の名産品で毎年、窪島誠一郎さんの元には実母から落花生が送られていたそうです。

実母の本当の死の原因を知った窪島誠一郎さんは、落花生を見ながら涙を流したそうです。

窪島誠一郎さんの実母は、息子を手放したことを生涯に渡り後悔をしていたとのことで、最後は自死という結末を迎えています。

もし、窪島誠一郎さんが実母の「会いたい」との要求に応えていたら?なんて第三者は簡単に思ってしまいますが、両親から捨てられた子供からすると、その思いは煮えたぎる思いであったことでしょう。

窪島誠一郎さんは実母と養母について本を出しています。

二人の母親について窪島誠一郎さんの熱くも憎悪感もある母親に対する思いが込められています。

現代社会の親子関係に於いても、非常に参考となる一冊です。

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まとめ

窪島誠一郎さんの複雑な生い立ちと親子関係。

また無言館についても、興味のそそられる部分がとても多いです。

機会があったら是非、無言館に足を運んでみてはいかがでしょうか。

ou

無言館の詳細についてはこちらをどうぞ!

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