予知夢が現実になる漫画家として話題のたつき諒先生。
2011年3月11日の東日本大震災を的中させたとして密かに注目を集めてきました。
そんなたつき諒先生の2025年7月の予知夢が更に注目をされています。
この記事ではたつき諒先生の現在の年齢をはじめプロフィールと2025年7月5日の予知夢についてまとめています。
たつき諒の現在の年齢とプロフィール
まずは、たつき諒先生のプロフィールからご覧ください。
- ペンネーム: たつき諒、竜樹諒
- 生年月日: 1954年12月2日(2022年で68歳)
- 出身地: 神奈川県横須賀市
- 学歴: 横浜市立横浜商業高校
- 血液型: O型
- 趣味: 旅行
たつき諒先生は、神奈川県横須賀市の出身。
2022年で68歳です。
ペンネームが「たつき諒」と言うことで男性の漫画家と思われますが、たつき諒先生は女性の漫画家です。
正式には漫画家でした。
たつき諒先生は、1999年に漫画家としてストーリーを考えていくことが苦手であることと、体力に限界を感じて漫画家は45歳のときに引退されています。
漫画家を引退後のたつき諒先生は、医療事務をしたり一般企業で働いたりと一般人として生計を立ててこられたようです。
そして68歳となった現在は横浜市在住で、趣味の旅行を楽しんだりしているとのこと。
以外にも一般人として人生を送っていました。
たつき諒の経歴
たつき諒先生の経歴をザっと紹介します。
たつき諒先生は、子供の頃から志を高く持っていた少女だったようです。
中学一年生の頃は、歌手になることが夢でした。
夢を叶えるために、たつき諒先生は神奈川県から東京神田の歌謡アカデミーに通って歌のレッスンを受けていました。
歌手になりたいと言うちょっと現実離れした夢を応援するために、神奈川の自宅から東京まで歌のレッスンのために通わせることが出来たことを考えると、たつき諒先生の実家かかなり金銭的に余裕があった家庭に生まれているようですね。
しかし、たつき諒先生は歌の先生から「裏声の方がキレイな声ね。」と褒められているのかけなされているのか分からない言葉をかけられたことで、3ヵ月で歌手になることを断念します。
中学2年生になると、タレントを目指し始めます。
また東京の東京宝映タレント芸術学校へ入学。
しかし、ここでは周囲の熱すぎるやる気に圧倒されてしまい、ここもまた3ヵ月で断念。
その他にもフィギュアスケート教室にも通っていたそうですよ。
たつき諒先生の年代でフィギュアスケートをやっていたとなると、かなり裕福な家庭環境であったことが想像されます。
あれもこれもとチャレンジしては、長続きがしないのが特徴だったようです。
高校は横浜市立横浜商業高校に進学します。
横浜商業高校の偏差値は49~58。
野球部の強豪校として有名のようで、たくさんのプロ野球選手を輩出されています。
たつき諒先生は高校ではテニス部に所属。
テニス部の部長にも抜擢され、テニスと学業の文武両道の高校生活を送られたようです。
しかし、高校在学中の2年生の時に交通事故に遭います。
幸いにして命に別状はありませんでしたが、交通事故に遭ったことで将来について真剣に考えるようになったと言います。
たつき諒先生にとって平凡な人生はあり得なかったよう。
有名になれる可能性のある職業を模索します。
たつき諒先生は歌手やタレントを目指すなど、人前に出ることが好きなタイプだったようですね。
将来的に有名になれる職業を探していた時に偶然に目にしたのが、お兄さんが買ってきた「漫画家入門」でした。
「これだ!」と直感を感じたたつき諒先生は、自己流でマンガを書く練習を積んでいきます。
そして、高校を卒業すると漫画家のアシスタントとして、漫画家への第一歩を踏み出しました。
アシスタント時代から順調に漫画家への道が切り開かれたたつき諒先生は、白泉社の「花とゆめ」の少女漫画で賞の受賞がきまり、白泉社から漫画家のデビューが決まっていました。
しかし、たつき諒先生は秋田書店さんからもスカウトを受けており、最終的には秋田書店さんから「竜樹諒」のペンネームで1975年に漫画家デビューを果たしています。
たつき諒先生のデビュー作は、「郷ひろみ物語」。
たつき諒先生21歳の時でした。
その後も順調に新作を発表。
主な作品は次の通り。
- 人形物語
- 宝石物語
- 時計物語
- 時の中の少女
- 水色の航空書簡
そして1999年に、後に話題となる「私が見た未来」を出版。
「私が見た未来」は、たつき諒先生が夢に見たことを短編の漫画化にしたもので、15件中13件が現実になったと言われています。
中でも、1999年に出版された「私が見た未来」の漫画の表紙に、「大災害は2011年3月」と書かれていたことが、後の東日本大震災に繋がり、一部の人の間で話題となりました。
その後、都市伝説で有名な関暁夫氏によってたつき諒先生の「私が見た未来」」が紹介され、たちまち話題となった経緯があったのです
。
たつき諒先生の「私が見た未来」の中古本は10万円で取り引きされるまでに話題となったのです。
たつき諒先生は、元々は霊感は全く持っていないとのこと。
1980年頃から予知夢を見るようになったと言います。
1980年から1999年の間に、大地震や災害、事件などで多くの人が亡くなる夢を見るようになったそう。
そのうち不気味な夢を日記に書き留めるようになり、その夢の日記を元にして短編の漫画にしたのが「私の見た未来」だったのです。
その中の一つに2011年3月11日の東日本大震災が書かれていたのです。
1999年に出版された「私の見た未来」は約12年後に現実となって現れたことで、たつき諒先生に注目が集まるようになったのです。
東日本大震災が起こった時にたつき諒先生は、20113月の予知夢のことは忘れていたそうです。
人伝えに伝えられて「そう言えば!」と思い出したとのこと。
そして、更にたつき諒先生が注目されているのが、2025年7月の予知夢です。
次項で詳しく見ていきましょう。
たつき諒2025年7月5日の予知夢について
たつき諒先生の2025年7月5日の予知夢が更に注目されています。
と言うのも、2021年10月1日に「私の見た未来」が完全版として出版されたのです。
「私が見た未来・完全版」には、たつき諒先生が今まで書き溜めてきた予知夢でも、今ままで封印されていたものが書かれています。
中でも注目が集まっているのが、2025年7月5日の予知夢です。
たつき諒先生の2025年7月5日の予知夢には、東日本大震災よりも巨大な大津波が日本列島を襲うというもの。
想像しただけで恐ろしいです。
神経質な方は、四六時中そのことが頭から離れられないくらいに強烈なメッセージともとれます。
どうか、この予知夢は外れであって欲しいと願うばかりです。
たつき諒先生の予知夢の最新版として出版された「私の見た未来・完全版」に、詳細が書かれています。
東日本大震災の他にも、たつき諒先生が的中させた予知夢を少し紹介しておきます。
●尾崎豊さんの死
1982年4月25日に見た夢で日本のロックシンガーが亡くなる夢。
1983年に尾崎豊さんはデビューしており、1992年4月25日に26歳の若さでこの世を去っています。
●イギリス ダイアナ妃の死
1992年8月31日にダイアナと言う名前の死の夢。
この夢は1994年の雑誌にも掲載しています。
そして、1997年8月31日にダイアナ妃は交通事故によりこの世を去っています。
●阪神淡路大震災
1995年1月2日の夢で、15日後か15年後に神戸でひび割れた大地の夢を見ています。
その夢から15日後の1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こっています。
●コロナ禍
1995年に疫病の予知夢を見ています。
プラス15の法則から2020年頃に未知のウィルスが現れること。
このウィルスは4月がピークで消えて、10年後にまた現れると出たそうです。
確かにたつき諒先生の予知夢は、どんぴしゃな感じではありますね。
まるで誰かが、未来からのメッセージをたつき諒先生にお告げしているような感じにさえ受け取れます。
都市伝説の関暁夫氏の言葉をお借りして「信じるか信じないかはあなた次第。」として、たつき諒先生の予知夢に関してまとめたいと思います。
本当に、「信じるか信じないかはあなた次第」です!
まとめ
予知夢が現実になるとして、過去に東日本大震災が起こることを夢に見ていたたつき諒先生について、現在の年齢や経歴、また注目されている2025年7月の予知夢について紹介しました。
くどいようですが、「信じるか信じないかはあなた次第」。
最後までお読み下さりありがとうございます。
たつき諒先生の2025年7月5日の予知夢の大津波の場所についてはこちらの記事で詳しく書かれています。
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