ジャニー喜多川の生い立ちまとめ!両親は日本人でアメリカ育ち?

実業家
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ジャニーズ事務所の創業者、ジャニー喜多川さん。

既にこの世を去ってますが、亡くなられた現在でも話題が尽きることはありません。

今更かもしれませんが、改めてジャニー喜多川さんの謎のベールが気になります。

ジャニー喜多川さんはどのような生い立ちを辿り、ジャニーズ王国を築いてきたのでしょうか?

そこで、この記事では、

  • ジャニー喜多川の生い立ちとは?
  • どんな幼少期を過ごしてきたのか?
  • 両親はどんな人だったのか?
  • 兄弟は何人なのか?

という疑問についてまとめています。

ジャニー喜多川さんの実業家としての素質が垣間見られるようです。

それではジャニー喜多川さんの生い立ちをご覧下さい!

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ジャニー喜多川のプロフィール

ジャニーズ事務所の創業者として多くの男性アイドルを世に送り出してきたジャニー喜多川さん。

ジャニーズのアイドルの存在は多くの人に夢と希望を与えてくれました。

ジャニー喜多川さんは、社会的にも大きな功績を残されました。

ジャニー喜多川さんのプロフィールです。

  • 生年月日: 1931年10月23日
  • 死没年月日: 2019年7月9日(享年87歳)
  • 日本名: 喜多川擴(ひろむ)
  • 英名: ジョン・ヒロム・キタガワ
  • 出生地: アメリカ・ロサンゼルス
  • 学歴: ロサンゼルス・シティー・カレッジ
  • 出身大学: 上智大学国際部(現在は国際教養学部)卒業

ジャニー喜多川さんはアメリカ・ロサンゼルスで生まれています。

出生地はロサンゼルスですが、主な育ちは日本です。

ジャニー喜多川さんがアメリカ生まれなのは、父親の仕事の関係が大きく影響していました。

昭和初期にアメリカに移住していたジャニー喜多川さんの両親はそれだけでかなり裕福な環境にあったことや、優秀な家系であったことが容易に想像できますね。

ジャニー喜多川さんは生まれながらにして特別な環境で育ったようです。

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ジャニー喜多川の家族構成

ジャニー喜多川さんは名前からしてハーフのように思われます。

また、独特の語り口調で相手を呼ぶ時に「YOU」と呼ぶことは有名でした。

「YOU」と英語を使うこともジャニー喜多川さんがハーフであるかのように受け取れました。

見た目的にも、トレードマークとも言える帽子とサングラスがやけに日本人離れをしているようでもありました。

ジャニー喜多川さんの両親は生粋の日本人です。

父親も母親も日本人だったのです。

ジャニー喜多川さんの家族構成がこちら

  • 父親: 喜多川諦道(たいどう)
  • 母親: 喜多川栄子
  • 姉: 泰子(メリー喜多川)1926年生まれ
  • 兄: 喜多川真一(まさかず)

ジャニー喜多川さんは両親と兄弟は兄と姉の3人兄弟で育っています。

引用元:google

姉のメリー喜多川さんはジャニーズ事務所の経営を担っていましたが、2021年8月14日に亡くなっています。

そして後にジャニーズ事務所の経営を引き継いだのがメリー喜多川さんの娘さんの藤島ジュリー景子さん。

つまり、藤島ジュリー景子さんはジャニー喜多川さんにとって姉の子供になり、姪になります。

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ジャニー喜多川の生い立ち

ハーフと思われがちなジャニー喜多川さん。

ジャニー喜多川さんはアメリカ・ロサンゼルスで誕生しています。

ジャニー喜多川さんの父親の喜多川諦道さんは仏教の高野山真言宗の米国別院の僧侶でした。

ジャニー喜多川さんの父親の諦道さんがこちら。

引用元:google

ジャニー喜多川さんの父親の諦道さんは1896年(明治29年)大分県の出身で、8歳の時に稚児(少年修行僧)として和歌山県高野山の伝道師になっています。

その後、高野山大学に進学し僧侶の道を歩んでいます。

高野山大学は現在も存在しており、将来的にお寺を継ぐ人にとって深く学べる大学となっています。

お経の読み方や宗教に関することをメインに学べる大学のようです。

ジャニー喜多川さんの父親は天真爛漫のな性格であったようで、自ら「ヤクザ」、「遊び人」と言っていたそうです。

僧侶でありながら自らを「ヤクザ・遊び人」呼ばわりしていたというジャニー喜多川さんの父親は破天荒な性格であったようです。

僧侶のイメージからは相当かけ離れた人柄であったようです。

ジャニー喜多川さんの一風変わったように感じ取れる人となりも、父親譲りの部分もあったように思えてなりませんね。

ジャニー喜多川さんの父親は若かりしき頃に師匠の僧侶が大隈重信氏と親しくしていたことに大きく影響されて、海外に興味を持ち始めます。

父親が大隈重信氏と繋がりのある環境にいたことは、やはりジャニー喜多川さんは生まれながらにして大物になる器が備わっていたと思わざるを得ません。

そして1024年27歳の時に真言宗の布教のために世界一周の旅に出ます。

この時、すでにジャニー喜多川さんの父親は母親の栄子さんと結婚されていたそうです。

真言宗の布教のため世界一周の旅に出た父親はロサンゼルスで布教活動をするうちにハプニングに遭います。

リトルトーキョーにある高野山真言宗高野山米国別院に立ち寄ったときのこと。

当時の主監が急遽帰国することになり、代わりにジャニー喜多川さんの父親が第三代主監に就任することになったのです。

日本に残してきた妻をロサンゼルスに呼び、ロサンゼルスに移住することになりました。

そこでジャニー喜多川さんの三兄弟は誕生します。

アメリカで誕生したジャニー喜多川さんはアメリカと日本の二つの国籍を持っていたことで、名前もミドルネームがついたという経緯があったのです。

ジャニー英名は「ジョン・ヒロム・キタガワ」ですが、「ジャニー」という名前はジャニーさんが後にショービジネスで知り合ったアメリカ人から呼ばれていたのが「ジャニー」と言う愛称だったのです。

ジャニー喜多川さんの父親は真言宗の布教活動の他にも、1946年2月~1948年2月までプロ野球チームのゴールドスターのマネージャーを務めていたと言うことです。

ジャニー喜多川さんが後に少年野球チームを作ったことも父親の影響が大きかったのかもしれませんね。

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ジャニー喜多川の兄

ジャニー喜多川さんのお兄さんの真一さんは、アメリカの名門校で知られるカリフォルニア大学ロサンゼルス校を卒業しています。

大学卒業後は宇宙船関連の航空機メーカーでエンジニアとして働き、後にアメリカ航空宇宙局でアポロの計画を設計したそうです。

航空宇宙局でアポロ計画に携わった科学者ということで、ジャニー喜多川さん一家のずば抜けた秀才振りが伺えます。

ジャニーさんのお兄さんの真一さんは、1980年代に50代半ばで死去されたと言うことです。

科学者として道半ばであったでしょうか?

無念であったことと思います。

ジャニー喜多川の幼少期

アメリカで生まれたジャニー喜多川さん。

1933年に一家で日本に移住します。

ジャニー喜多川さん2歳の頃ですね。

日本は大阪市で暮らし始めます。

間もなくして母親が亡くなり、その後太平洋戦争が勃発。

ジャニー喜多川さん兄弟は子供だけで和歌山県那智勝浦に疎開し、16歳まで暮らします。

その後終戦を迎え、1947年にジャニー喜多川さん兄弟はアメリカ国籍を無効にしないために、子供だけでロサンゼルスに再び移住し、そのまま現地の高校と大学に進学。

1952年に当時アメリカ国籍だったジャニー喜多川さんと兄の真一さんは徴兵の義務があり、朝鮮戦争に徴兵されます。

ジャニー喜多川さんは韓国の戦災孤児に英語を教えていたそうです。

この時、ジャニー喜多川さんは朝鮮語を取得するために広島県江田島にある米軍の学校だった「江田島学校」に通い、10か月で朝鮮語をマスターしたというのですから驚きです!

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その後、アメリカ陸軍犯罪捜査司令部の通訳助手として再び来日。

除隊後はアメリカに戻らずそのまま日本に永住しています。

除隊後、再来日してからは上智大学国際部に社会人として入学。

この頃にバンドを結成し芸能界の道を模索し始めています。

ジャニー喜多川さんの若かりしき頃の画像がこちら。

引用元:google

ジャニー喜多川さんは生粋の日本人ですが、掘りの深い顔立ちが日本人離れしているかのようです。

ハーフに勘違いされるのも頷けます。

その後、ジャニー喜多川さんの英語力とアメリカでの経験が買われ、アメリカ大使館管轄下の在日アメリカ軍事支援顧問団の事務職員として、旧防衛庁にあった顧問団の事務所に勤務しています。

ジャニー喜多川さんの幼少期から青年期をまとめるとこんな感じです。

  • ジャニー喜多川さんの父親は僧侶だった
  • 幼少期はアメリカで生活しておりにアメリカと日本の二重国籍を持っていた
  • アメリカ兵として徴兵の経験があった

ジャニー喜多川さんは国際的に活動する僧侶の父親に持ち、お金には困らない生活を送っていました。

それでも時代の背景で戦地での決闘こそは経験していませんが、徴兵され戦争を経験しています。

また、アメリカと日本の二重国籍を持っていたことで、ジャニー喜多川さんが日本人離れしているのもそんな背景からくるのかもしれません。

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ジャニーズ事務所を設立したきっかけ

ジャニー喜多川さんが芸能界に興味を抱いたきっかけは美空ひばりさんであったようです。

ジャニー喜多川さんが16歳で再びアメリカに移住した時に、ジャニーさんの父親が建てた本堂の舞台で美空ひばりさんのショーが行われました。

美空ひばりさんのショーがきっかけでジャニー喜多川さんは日本の芸能界とショービジネスに興味を持つと共に日本の芸能界のコネを持つことが出来たのです。

そして朝鮮戦争での懲役を経て再び日本に帰国。

1960年頃に近所の少年を30名ほど集め野球チームを作り、ジャニー喜多川さんはコーチに就任。

アメリカ時代からの愛称だった「ジャニー」に因んで、少年野球チームを「ジャニーズ」と名付けたのです。

ジャニー喜多川さんの父親もプロ野球のコーチをしていた経験がありますが、父親の影響でジャニーさんも野球が好きだったようですね。

少年野球チームのコーチ時代にチームの少年と一緒に観た映画、「ウエストサイドストーリー」に感動し、エンターテイメントの事業を立ち上げることを決意しました。

1962年に少年野球チームのメンバー4人のと一緒に初代ジャニーズを結成。

ジャニーズ事務所の原点は少年野球チームから始まっていたのです。

当時、池袋にあったプロダクション「新芸能学院」に籍をおきながら活動し、その後渡辺エンタープライズと業務提携しながら、1975年に正式にジャニーズ事務所として法人を立ち上げており、現在に至っています。

少年野球チームのコーチを経て、芸能関係の道を進んだジャニー喜多川さん。

私生活では一度も結婚することなく、アイドルの育成やプロデュースに全身全霊を注いでこられました。

その甲斐あって、

●「最も多くコンサートをプロデュースした人」

●「最も多くナンバーワンシングルをプロデュースした人

としてギネス世界記録を樹立されています。

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まとめ

ジャニー喜多川さんの生い立ちを中心に幼少期から成長期まで、芸能事務所を設立するまでの経緯を紹介しました。

今は亡きジャニー喜多川さんですが、ジャニー喜多川さんが築き上げたエンターテイメントに多くの人が夢や希望を持ったことでしょう。

改めて、生い立ちからしてジャニー喜多川さんの偉大さを感じました。

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