1980年代のトップアイドル中森明菜さん。
中森明菜さんは松田聖子さんと共に2強アイドルの時代を君臨されてきました。
そんな中森明菜さんですがプライベートではトラブルも多かったようで、どことなく暗い部分が見え隠れしている印象が残っています。
中森明菜さんはどのような生い立ちを辿ってきたのでしょうか?
また現在は家族関係も破綻しているとのことで、その理由などを深掘りしてみました。
中森明菜の生い立ち
中森明菜さんのプロフィールがこちら。
- 本名: 中森明菜
- 生年月日: 1965年7月13日(2022年で57歳)
- 出生地: 東京都大田区
- 出身地: 東京都清瀬市
中森明菜さんの本名はそのまま「中森明菜」さんです。
まるで芸名のような素敵な名前ですが、中森明菜さんの父親は中森明男さんで明菜さんの兄弟は全て父親の「明」の文字が付けられています。
中森明菜さんの家族構成がこちら。
- 父親: 明男
- 母親: 千恵子
- 長女: 明恵
- 長男: 明浩
- 次男: 明法
- 次女: 明子
- 三女: 明菜
- 四女: 明穂
中森明菜さんは父親が精肉店を営む家庭の四女として誕生しています。
中森明菜さんの兄弟は男2人の女4人の6人兄弟です。
両親も合わせると8人家族です。
多いですね!
兄弟が多い家族ということで家計が大変そうと思ってしまうところですが、中森明菜さんの父親が精肉店を営んでいたとのことで、家族8人でも比較的余裕のある生活を送られていたようです。
その証拠に、中森明菜さんは4歳から14歳まで10年間練馬区のバレエ教室「横山昭子モダンバレエスタジオ」に通っています。
ある程度生活に余裕がなけえれば、子供にバレエを習わせることは不可能と思います。
10年間も習っていたということですから、比較的裕福な家庭環境であったと想像されます。
バレエ教室の先生によると、明菜さんはフラメンコとタンゴがとても上手だったそうで、練習も休むことなく真面目に通っていたとのこと。
中森明菜さんは6人兄弟の下から2番目ということで、家の中では「家族の小さなアイドル」という存在であり、両親や兄弟から可愛がられて育ったようです。
また、小さい頃は病弱な体質で、プールに入ると唇が直ぐに紫色になってしまったとのこと。
中森明菜さんと言うと、歌の内容などからどこか「不良」とのイメージが結びついてしまう部分もあるでしょうか?
実際の中森明菜さんは子供のころから明るく真面目であり、無邪気で人懐こい性格であったと担任の先生も述べています。
話を少し戻しましょう。
中森明菜さんは東京都大田区に誕生していますが、後に家族揃って東京都清瀬市に引っ越しています。
中森明菜さんの父親は埼玉県志木市の出身で、本家は11代前まで遡ることのできる旧家として地元では有名だったとのこと。
志木市には「中森」の姓が20件ほどあり「中森村」との別名もあるほどなんだとか。
中森明菜さんの母親のルーツは鹿児島県ですが、生まれたのは戦争中のことで満州国の首都であった新京で誕生しています。
戦後、家族で日本に引き揚げています。
明菜さんの母親は歌手になることが夢だったとのこと。
19歳で歌手を目指して上京。
当初は新宿の歌舞伎町でキャバレーで働いていましたが、明菜さんの父親と出会い21歳で結婚をしています。
結婚と同時に歌手になることを断念。
歌手になる夢はそのまま明菜さんに受け継がれるのでした。
中森明菜の学歴と経歴
中森明菜さんの学歴です。
- 中学校: 清瀬市立清瀬中学校
- 高校: 大東学園高等学校
- 明治大学付属中野高等学校 定時制中退
中学は地元の公立の清瀬中学校を卒業されています。
中学校の修学旅行でのバスの中ではいつもマイクを握りずっと歌を歌っていたそうです。
高校は私立の大東学園高等学校に進学しますが、高校生でデビューをした中森明菜さんは途中から明治大学付属中野高等学校の定時制に編入。
参考までに大東学園高等学校の偏差値は40となっています。
卒業生の中にはタレントの飯島直子さんや大西結花さん、女優の松嶋トモコさんらがいます。
明治大学付属中野高等学校に編入した中森明菜さんですが、人気絶頂期を迎えており芸能活動に専念するとのことで定時制の中野高等学校は最終的に中退されています。
中森明菜さんは1981年16歳のときに日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生」で合格してワーナーパイオニアレコードと契約。
「スター誕生」は3度目の挑戦で合格だったそうです。
1982年5月1日に「スローモーション」で歌手デビュー。
デビュー曲はたちまち大ヒット。
瞬く間に1980年代を代表するアイドルへと駆け上がっていきました。
中森明菜さんの強みは何といっても力強い歌唱力。
また顔も奇麗であり、当時は年齢の割りに大人っぽい雰囲気が更にファンの憧れとなっていったように思います。
その後は女優業にも挑戦。
映画「愛・旅立ち」では近藤正彦さんとのダブル主演で話題となりました。
2010年に体調不良で活動を休止に入りますが、その辺りから徐々にメディアでお目にかかる機会も少なくなって行きました。
直近では、2017年のディナーショーが公に姿を見せたのが最後となっています。
中森明菜の母親
中森明菜さんは幼い頃から母親が大好きで、母親にべったりの甘えん坊だったそうです。
そんな大好きだった母親を1995年6月10日に癌で亡くしています。
千恵子さんは実家の父親の眠るお墓に入りたいとの希望を家族に伝えており、遺言通り千恵子さんは中森家のお墓ではなく実家のお墓で眠りについているそうです。
中森明菜さんを歌手に導いたのは紛れもなく、母親の千恵子さんでした。
母親の千恵子さんは自分も歌手を目指していたくらい歌が大好きで、特に美空ひばりさんの大ファンだったそうです。
美空ひばりさんのよな歌手になりたいと思っていたそうですよ。
中森明菜さんを身ごもっていた時は、よく美空ひばりさんの歌を歌っていたそうです。
中森明菜さんの歌唱力の高さは母親譲りであるようです。
中森明菜さんの芸能活動が順調になった頃に、母親の千恵子さんは清瀬市でカラオケスナックの経営をされていましたが、現在は閉店となっています。
中森明菜の妹
中森明菜さんの6人兄弟の一番末っ子の妹さんの明穂さん。
中森明菜さんの後を追うよに芸能界デビューを果たしていますが、思うように売れなくすぐに引退されています。
そして2019年5月27日に肝硬変の疾患で52歳の若さで他界されています。
中森明菜の家族崩壊の真相
アイドルとして大成功の道を歩んだ中森明菜さん。
私生活では気苦労も多かったようです。
特に家族関係では不仲説が浮上しています。
中森明菜さんの母親が末期がんで入院している時に病院にお見舞いに行ったのを最後に家族の前で姿を見せたのはそれが最後だったと言います。
最後のお見舞いでは目に一杯涙を溜めて「お母ちゃん、明菜だよ。」と言って千恵子さんの手を握ったのが最後だったとのこと。
母親の千恵子さんは痛み止めの薬で意識が朦朧としており、明菜さんを認識していたかは不明だそうです。
それから間もなくして千恵子さんが他界。
通夜と告別式に明菜さんの姿はなかったということです。
この件に関しては、一人の兄に「お母ちゃんの遺体を見たくない。」と言ったそうです。
それ以来、中森家の家族は誰一人明菜さんと連絡を取り合うことも出来ない状態になってしまったとのこと。
そして、2019年5月に他界した妹さんの葬儀にも姿を現すことはなかったと言います。
なぜ、仲の良かった家族がバラバラになってしまったのでしょうか?
ことの発端は金銭が絡んでいたと言われています。
ある時、中森明菜さんは「家族が私のお金を無断で使いこんでいる。」とこぼしたことがあったそうです。
事務所のスタッフから明菜さんに「実家にお金が沢山流れていて大変なんです。」と言われたことで、明菜さんは家族が勝手に自分のお金を使っていると疑念を持つようになっていったと言われています。
確かに、明菜さんの税金対策として母親のカラオケスナックをオープンさせたり、精肉手を営んでいた父親のお店を閉店させて埼玉県志木市に中華料理店をオープンさせたりしたことは確かなよう。
税金対策であったにもかかわらず、その辺で話の食い違いがあったのかもしれませんね。
家族と音信不通になった明菜さんは母親の死後、戸籍を中森家から勝手に除籍していたことも判明しているようです。
大成功の道を歩んだ明菜さんは大金を手にすることが出来、一生生きて行くには困らないほどのお金も手にされていることでしょう。
しかし、明菜さんが本当に望んでいたものは手に入れることが出来なかったのかもしれません。
もしかしたら大成功と引き換えに最愛の家族というものを失ってしまったのかもしれません。
まとめ
中森明菜さんの生い立ちと家族関係の破綻の真相について紹介しました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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