シャンソン歌手や俳優、声優、コメンテーターとしてマルチな才能で活躍されている美輪明宏さん。
説得力があり、それでもって周囲を和やかな雰囲気にさせる響く言葉と上品な話し方がとても好きです。
そんな美輪明宏さんの口から出てくる数々の言葉は、美輪明宏さんの人生経験の豊富さが見て取れます。
そこでこの記事では美輪明宏さんの生い立ちに迫ってみたいと思います。
美輪明宏の生い立ち
美輪明宏さんのプロフィールから紹介します。
本名: 丸山明宏
出生名: 丸山臣吾(まるやま しんご)
生年月日: 1935年(昭和10年)5月15日
出身地: 長崎県長崎市
出身小学校: 佐古国民学校(現在の長崎市立佐古小学校)
出身中学校: 海星中学校
出身高校: 国立音楽大学付属高等学校中退
身長: 161センチ
美輪明宏さんは昭和10年の戦前に長崎県長崎市に誕生しています。
2022年で87歳となられます。
とても綺麗で健康的で実年齢よりも若く見えますね。
美輪明宏さんの出生名は「丸山臣吾」さんですが、どういった経緯で「丸山明宏」に変更されたかは不明ですが、後に「明宏」となり、本名は「丸山明宏」さんとなります。
美輪明宏さんの父親は、遊郭の近くで「世界」という名前のカフェーを営んでいた実業家の美輪作一さん。
現在はあまり耳にすることのない「遊郭」とは、政府が管理・運営する、主に性風俗(遊女)を扱う場所のことを示しています。
当時のカフェーはキャバレーとバーの中間の位置づけであったとされています。
現在のコーヒーを楽しむ喫茶店とはちょっと違ったお店ですね。
また、美輪明宏さんの父親はカフェーの他にお風呂屋さんや料亭も営んでいたとのこと。
美輪明宏さんの母親は丸山ヌメさん。
結婚前は大阪の日赤病院で看護師として婦長を務めながら医療に従事していました。
しかし、ヌメさんは美輪明宏さんが2歳の時に病死。
父親は近所の食料品店の娘さんを後妻さんとして迎い入れます。
後妻さんはととても美人な女性で、美輪明宏さんのことも可愛がってくれたそうです。
美輪明宏さんは実業家の父親の元、裕福な家庭のお坊ちゃまとして美輪明宏さんは誕生していました。
美輪明宏さんの父親の営むカフェーでは20人近くの女給さんやホステスさんが働ていたそうです。
小さい頃から顔立ちが整っていた美輪明宏さんは、女給さんやホステスさんからとても可愛がられて育ったそうです。
カフェーの隣には「南座」という芝居小屋があり、美輪明宏さんは小さい頃から芝居小屋に出入りしており、ここでも役役者衆に可愛がられていました。
この芝居小屋では演出の仕方や大道具、小道具、衣装、化粧の仕方などを間近かで見ることができました。
また、世界の映画も上映されており、世界中の映画を見ることが出来たそう。
カフェーの向かい側では楽器屋さん兼レコード屋さんがあり、そこから流れてくる音楽が自然に耳に入るという環境でした。
幼い頃から美輪明宏さんの身の回りには芸の文化や音楽の文化など肌身で感じることの出来る環境にあったのです。
しかし、戦前に生まれた美輪明宏さん。
どんなに裕福な家庭に生まれても戦争を回避することは出来ませんでした。
1941年12月、イギリスやアメリカと戦争体制に入ると、カフェーを営んでいたことが適性文化に商売にすることは時局にそぐわないとされ、父親はやむを得ずカフェーを閉店。
美輪明宏さんの父親は、カフェーの経営の代わりに金融業に転業し、お金の融資をするようになります。
1945年(昭和20年)8月9日、美輪明宏さん10歳の時。
雲一つない快晴だったと言います。
美輪明宏さんは夏休みの宿題の絵を書いていた時のことです。
長崎に原爆が投下されました。
美輪明宏さんは女中さんに連れられ兄と一緒に防空壕に避難、一命をとりとめました。
しかし美輪明宏さんにとっての二人目の母親である継母は原爆で命を落としました。
原爆投下後から6日後に生母の実家に祖父母を探しに一人で言った美輪明宏さんは大惨事を目の当たりにしています。
原爆により、父親の金融業の貸付先のが相次いで破産、または他界したため貸し付けたお金の返済が受けられず、一家は極貧生活を余儀なくされたのです。
そして、美輪明宏さんの父親は後に3人目の妻を迎い入れています。
美輪明宏さんにとっても3人目の母親となります。
美輪明宏さんはカフェーを営む父親の元に次男として誕生しいますが、最終的に兄弟は10人となり、実の兄以外は腹違いという複雑な兄弟関係の中で成長することになるのです。
しかし後々、美輪明宏さんはこの異兄弟のためにお金を稼ぎ、異兄弟の生活を守っていたのです。
美輪明宏の学歴
美輪明宏さんは歌手を目指し、国立音楽大学付属高等学校(現在の国立音楽大学)に進学。
国立音楽大学付属高校に進学するために15歳で上京、歌手を目指します。
この当時、長崎からから音楽を学ぶために高校進学とともに状況出来る状態にあった美輪明宏さんは、この恵まれた状態だけでもかなり裕福な家庭に育っていることが分かりますね。
上京後、何かの折に長崎に帰省した美輪明宏さん。
ここで父親の悪態を目にします。
生活苦にあえいでいた親戚に対して、無情にも見捨てるような態度をとっていた父親の姿を見た美輪明宏さんは父親に対して激怒します。
これが元で父親とは絶縁状態になり、仕送りも打ち切りとなってしまうのです。
父親と絶縁状態となった美輪明宏さんは一人で生きていくことを決断。
仕送りもなくなったため、高校は中退し働くことを選択します。
当初は生活費をい稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをしながら歌を歌う生活を送ったそうです。
新宿駅で寝泊まりしたこともあるとのこと。
17歳になるとゲイバーやバーテンダーのアルバイトで日当を稼ぐようになります。
その後、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」でボーイ兼歌手の募集の張り紙を見て、応募。
銀巴里の専属歌手として契約することになります。
銀巴里では国籍、年齢、性別不詳で売り出すと美輪明宏さんの美貌もあってか、たちまち人気者となります。
そして三島由紀をはじめ、吉行淳之介、大江健三郎、遠藤周作など著名な文化人から高く支持されるようになっていったのです。

1957年にはシャンソン「メケメケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌でシャンソンを歌い上げ一躍人気者に。
女性的なファッション要素を取り入れた、性別不詳のファッショも注目の的となりました。
三島由紀夫氏からは「天上界の美」と絶賛され、マスメディアからは「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と一世を風靡しています。
特に三島由紀夫氏からはとても気に入られていたようで、三島由紀夫は美輪明宏さんに対して次の言葉を残しています。
君の欠点は僕に惚れないことだ。
多くの文化人から愛されてきた美輪明宏さん。
やはり女性なのでしょうか?
気になるところです。
次項で、美輪明宏さんのジェンダーについて見ていきましょう。
美輪明宏のジェンダーは?
美輪明宏さんはLGBTの当事者とのこと。
つまり、同性愛者であるようです。
遡ること、70年以上前。
中学生のころからだったようです。
美輪明宏さんは幼少期のころより、顔立ちが整っておりハーフに間違われる程だったと言います。
そんな美輪明宏さんの容姿に憧れる男性はかなり多かったようで、10代のころはボーイフレンドには不自由しなっかたそう。
実家のカフェーがあったのは遊郭の近所であったことから、幼い頃から遊女の人生を垣間見てきた美輪明宏さん。
色恋に関しては早熟だったと言います。
なんでも初体験は中学1年生の時で相手は先輩の男子だったとのこと。
この頃から同性愛者であったようで、中学3年生になると多くの男子と経験をしたと言います。
美輪明宏さんは結婚歴はなく独身です。
濃く深い人生を歩んでこられた美輪明宏さんだからこそ、美輪さんの言葉は人の心の奥深くまで響くものがあるのだと改めて実感。
また、美輪明宏さんの心の優しさも際立っています。
美輪明宏さんの父親は最終的に事業を失敗。
事業を失敗した父親は、一度は絶縁した美輪明宏さんにお金の無心をするのですが、美輪さんは父親の生活苦にあえいでいる親戚に対する無情な態度が許せませんでした。
しかし異兄弟の生活のことを思って、美輪明宏さんは父親に無情な仕打ちも出来ずに、自らが更に仕事を増やしてお金を稼いで兄弟たちのためにお金の工面をしていたのです。
現在の美輪明宏さんはパッと華やかさが際立っており、新宿駅で寝泊まりしながら日当を稼いでいたようには到底思えません。
そんな経験が美輪明宏さんの深い言葉となって現れているような気が致します。
ちょっとスピリチュアルな感じではありますが。
スピリチュアルと言えば、美輪明宏さんは江原啓之氏のことをとても信頼されています。
美輪明宏さん曰く、
「金銭目的で占い師、霊能者を自称する輩がほとんどであるなか、江原啓之氏は数少ない本物。」
と信頼を置いています。
また、現在は髪を黄色に染めている美輪明宏さん。
これは30代の時に肺を患って一気に白髪になってしまったことで当初は黒く染めていたが、1998年頃より風水に基づいて黄色いロングヘアーにするようになったそうです。
スピリチュアルも風水も上手く取り入れているところは、是非参考にしたいと思いました。
ちょっと、ジェンダーからは話が逸れてしまいましたが、美輪明宏さんのオーラの元に迫ってみました。
まとめ
美輪明宏さんの生い立ちを紹介しました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
美輪明宏さんのスマホ待ち受け画面のご利益についてはこちらの記事をご覧下さい。
コメント