新津春子の経歴が波乱万丈で子供を作らない理由も凄い!カリスマの詳細

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新津春子さんというカリスマ清掃員をご存知ですか?

羽田空港が世界一きれいな空港に選ばれるようになったのは、カリスマ清掃員新津春子さんの働きが大きく貢献されているようです。

そんな羽田空港のカリスマ清掃員の新津春子さんは、今では道徳の教科書にも取り上げられるほどの有名人になりましたが、ここにくるまでの新津春子さんの経歴は平たんな道ではなかったようです。

今回は、羽田空港のカリスマ清掃員の新津春子さんの経歴や子供を作らない理由などをお伝えします。

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新津春子の生い立ち

新津春子経歴

出典:instagram

新津春子さんの生い立ちです。

新津春子さんは1970年中国の瀋陽に生まれました。今年49歳になります。

中国の瀋陽は旧満州で日本の占領地でした。

父親は日本人中国残留孤児の一郎さん、母親は中国人の俊子さん。

新津春子さんの中国名は「郭 春艶」(カク シュンエン)。

父親が日本人中国残留孤児ということですが、日本人中国残留孤児とは満州事変の終戦時の混乱した中で、親と離れ離れになってしまい中国に置き去りになってしまった子供のことです。

戦後の混雑した状態の中、幼い子供が両親を見失ってしまい行き場もなくなってしまったことは、どんなにか心細く辛く過酷な状態だったかと思います。

新津春子さんの父親は日本人中国残留孤児ということで、混乱のご時世のなか必死で生き延びてきたことが伺われます。

新津春子さんご自身も中国での生活は苦労が絶えなかったようです。

周りからは「日本人」とバカにされイジメを受けていたそうです。

新津春子さんの生い立ちは、日本人の父と中国人の母の間に中国で生まれ高校生になるまで中国で生活をされていました。

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新津春子が日本に移住したのは高校生の時

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新津春子さんの父親は日本人中国残留孤児だったということで、もともと日本に生まれながら戦争のため両親と離ればなれになてしまい中国に置き去りになってしまった経緯がありますが、父親はずっと日本に帰国することを望んでおられたようです。

新津春子さんが生まれた2年後の1972年には、日中国交正常化が実現しています。

これは田中角栄元総理大臣の尽力によって実現したそうですが、日中国交正常化の実現から15年後の1987年に新津春子さんの家族は無事に日本に移住することが出来たようです。

日中国交正常化の実現から日本に移住するまで15年もかかってしまったのには、経済的な問題など色々とたくさんの困難があったからと想像できますね。

何年かかろうが、父親の希望通りに日本に移住することが出来たことは良かったですね。

日中国交正常化に尽力された田中角栄元総理大臣のことを新津春子さんの父親は大変尊敬をしていたようで、日本での名前は田中角栄元総理大臣にあやかって「田中」を名乗ることにしたそうです。

新津春子さんは現在結婚されて「新津春子」となっていますが、日本に移住した際にの名前は「田中春子」だったそうですよ。

新津春子さんが日本にやてきたのは高校生の17歳の時でした。

新津春子さんは東京都内の高校に編入しましたが、日本での高校生活も苦労の連続だったようです。

まず新津春子さんは、言葉が中国語しか話せなかったのです。

そして周りからは今度は、皮肉にも「中国人」と言われバカにされたそうです。

また、追い打ちをかけるように中国から移住してきた新津春子さんの家族にとって、日本の物価の高さが家計を圧迫していったのです。

新津春子さんは家計を少しでも助けるためにアルバイトを探しますが、見つけたバイトがお掃除のアルバイトでした。

お掃除のバイトだったら言葉が分からなくても出来る!と思ったからで軽い感じで始めた清掃のアルバイトが、後に人生を変える運命の出会いの仕事だったのです。

新津春子さんは学校とお掃除のアルバイトを両立しながら高校生活を送っていったようですが、この時既に新津春子さんはお掃除の仕事にやりがいを感じるようになっていたのです。

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高校卒業後からの経歴が凄かった

 

新津春子経歴

高校生の時に経験したお掃除のアルバイトをすでにやりがいを感じていた新津春子さん。

新津春子さんが高校卒業後に就職したのは、ヘッドフォンを作る音響機器メーカーでした。

1970年生まれの新津春子さんが高校を卒業したのは平成元年、バブル時代に差し掛かった時期でしたので、高卒での就職先はかなりの求人があったかと思います。

また高校生の就職に、大企業の求人もたくさん届いていた時代でもあったと思います。

今ではちょっと考えられませんね。

新津春子さんも音響機器メーカーに就職が決まりましたが、なんと清掃のアルバイトを就職してからも続けていたそうです。

本当にお掃除の仕事が好きだったようですね。

そして3年後には音響機器メーカーを退職し、品川の職業訓練施設に通い清掃に関する技術と知識を学び始めます。

新津春子さんは、清掃に関する仕事への夢をずっと心の中で温めてきたのでしょうね。

その夢に向かって学ぶという行動も素晴らしいですね!

新津春子さんは職業訓練施設を経て1995年25歳の時に日本空港テクノ株式会社に入社しますが、実はこの会社では男性しか募集していなかったそうですが、交渉の末に入社したということです。

新津春子さんの本気度が伺えますね。

日本空港テクノ株式会社に入社してからの新津春子さんは、技術も磨きあげ資格も取得していきます。

入社した1995年にはビルクリーニング技能士の国家資格を取得し、また清掃作業監督者の資格も取得しています。

1997年の全国ビルクリーニング技能競技大会東京予選では2位になり、全国大会の出場権を獲得します。

この予選会で2位になった時に言われた一言が更に新山春子さんの清掃に対する意識を変えるきっかけとなりました。

その一言とは、「あなたには優しさがない。」の一言だったのです。

「次の人が使うことを考え感謝の気持ちを込めて清掃することが大切。」と言われたのです。

この言葉を胸に刻み新津春子さんは、道具の使い方や先輩方の仕事をよく観察し、笑顔で清掃する事を決め、2か月後の全国大会では見事に優勝しました。

新津春子さんは、「清掃で大切なのは技術よりも優しさ」ということを学んだのです。

この時、新津春子さん27歳の時でした。

その後2013年に羽田空港が世界一美しい空港に初めて選出され、2019年までに5回も世界一美しい空港に選出されてるという素晴らしい実績を挙げているのです。

お掃除の仕事のイメージとして、地味で目立たない仕事のように一見思ってしまいそうになりますが、新津春子さんはこの清掃の仕事を見事に天職にしてしまったようですね。

現在の新津春子さんは環境マイスターとして後輩の指導にあたっているそうです。

新津春子が子供を作らない理由

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新津春子さんは1998年に28歳の時に結婚をしています。

ビルクリーニング大会で優勝した翌年に結婚していますが、これは新津春子さんが全国大会で優勝するまでは結婚しないと決めていたからだそうです。

そして結婚を機に「田中」から「新津」の姓に変わりました。

新津春子さんには子供がいません。

新山春子さんが子供を作らない理由というのがまた凄いです!

それは清掃の仕事と子育ては両立出来ないからという理由なのです。

それだけ仕事に強い責任感と情熱を持っており、そのことはご主人様も理解しているようです。

女性にとって仕事と家庭の選択は永遠の課題かもしれませんね。

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まとめ

羽田空港を世界一美しい空港に導いたカリスマ清掃員新津春子さんの経歴や子供を作らない理由についてお伝えしてきました。

お掃除というどちらかというとマイナスな印象の仕事を見事に天職にしてしまった新津春子さん。

中国から日本に渡ってきて大変な苦労もたくさん乗り越えてこられた新津春子さんだからこそ人を思いやる心で人に響く清掃の仕事が出来るもかもしれませんね。

羽田空港に行った際は、その美しさを隅々まで感じてみましょう!

 

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