羽賀研二さんが2019年1月に服役中でありながら、強制執行妨害の疑いで再逮捕されました。
このニュースを耳にして、とても羽賀研二さんらしいなと感じました。
いつまで経っても悪のイメージがぬぐい切れませんね!
羽賀研二さんのと言えば、「お金」と「女」と言ったところでしょうか?
なぜここまで羽賀研二さんは、犯罪を繰り返すのでしょうか?
羽賀研二さんの生い立ちを辿ってみると、羽賀研二さんの「悪」のイメージの核となる部分が見えてきました。
羽賀研二さんの生い立ちが、彼の悪な人生の軸となっているような気がしてなりません。
今回は、羽賀研二さんの生い立ちについて調べてみたいと思います。
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羽賀研二の生い立ち
梅宮辰郎さんにも「稀代のワル」と言われた羽賀研二さん。
羽賀研二さんの数々のトラブルを見ていると、まさしく「稀代のワル」と言われるのも納得せざるを得ません。
そんな羽賀研二さんですが、どうも「稀代のワル」と言われるよな大人になってしまったのは、羽賀研二さんの生い立ちに原因があるようです。
羽賀研二さんの生い立ちを見てみましょう。
羽賀研二の父と母
羽賀研二さんは、沖縄でアメリカ人と日本人の母の間に1961年7月21日に生まれました。
2019年の誕生日を迎えると58歳になりますね。
彫りの深い顔立ちですが、見るからにハーフっぽい感じはあまりしませんね。
父親はアメリカ人ということですが、アメリカ兵だったようです。
なので羽賀研二さんが生まれるとすぐにアメリカに帰国してしまい、母親は一人で羽賀研二さんを育てたようです。
羽賀研二さんの母親は遊ばれてしまったのか定かではありませんが、父親であるアメリカ兵は本気の恋愛の末でしたら、日本に残るとか逆に母親となった人をアメリカに連れて行くかの選択もあったと思われますが、いずれにしても母親は一人幼い子供を残されることとなってしましました。
父親に捨てられたと言っても過言でないはない環境での母と二人の生活は、貧困に窮した惨めな生活だったようです。
このような生い立ちを見ると、やはり羽賀研二さんの女癖の悪さなどは、このアメリカ兵の父親から受け継いでいるとしか思えませんね。
羽賀研二さんが「稀代のワル」と言われるよな大人に成長したのは、この父親が羽賀研二さんのコアな部分になっていのかもしれません。
羽賀研二の幼少期
アメリカ兵の父親がアメリカに帰国してしまい、沖縄に取り残された羽賀研二さんの母親は、シングルマザーとして羽賀研二さんを育てていくわけですが、この生活がとてつもなく極貧でした。
母親と羽賀研二さんの住居は電気店の納屋を借りて住まいにしていたようです。
電気店の納屋ということですので、お風呂もトイレもないようなところに住んでいたんでしょうね。
羽賀研二さんは、幼いころから新聞配達をして家計を助けていたようですよ。
小学校では母子家庭で貧困であることと、ハーフということで同級生からイジメを受けていたようです。
今でこそ外国人やハーフというのも珍しくないですが、1900年代ではハーフは珍しく思われていた時期でもあったかと思います。
ましてや、母子家庭となるとちょっと非難の目で見られる風潮もあったのでしょうね。
そのまま中学校でも赤毛でちぢれていることから、喧嘩を吹っかけられたりしたようです。
羽賀研二さんもイジメにあっていましたが、ひ弱ないじめられっ子だけではなかったようで、子供の頃からどうしようもない性格だったという証言もあるようです。
子供の頃からどうしようもない性格と言われていたその背景には、どんなことが隠されているのでしょうか?気になるところですが、大人になってから詐欺罪で捕まることを考えるともしかしたら盗みとか働いていたのかもしれませんね。
あくまでも想像ですが。
羽賀研二デビューのきっかけ
イジメにあっていた小学、中学時代の羽賀研二さんは、友達も少なかったようですね。
ただ、高校生になってから部活でバスケットボール部に所属しており、なんとインターハイに出場した実績が残っていました。
狭い沖縄県と言えど、県の代表としてインターハイに出場するのは、そう容易に出来ることではありません。
大学からもスカウトが来ていたようです。
羽賀研二さんは、身長も高く細身ですからバスケットボールに向いていたのでしょうね。
羽賀研二さんの芸能界デビューのきっかけは、数少ない友達と街に買い物に行った際にスカウトを受けたことがきっかけでした。
きっと長身でイケメンな少年がひと際目立っていたのでしょうね。
この時一緒に街を歩いていた友人は、羽賀研二さんの数少ない友人の一人で現在も連絡を取り合うほどの仲だそうです。
羽賀研二さんは沖縄の街でスカウトされたことがきっかけで、高校を卒業と同時の1981年にミュージカル「ザ・ファンタスティック」でミュージカルデビューを果たしました。
そして「笑っていいとも」の初代「いいとも青年隊」に起用され、それがきっかけで俳優と歌手として一躍人気者に成り上がりました。
羽賀研二さんにとって最高の芸能界デビューとなりましたね。
沖縄での極貧とイジメの幼少時代を考えると、一気にスターに這い上がり、心の中では沖縄でイジメた人を見返した気持ちを持っていたのではないでしょうか。
人生どこで何があるか分かりません。
いいとも青年隊で活躍していた頃が、羽賀研二さんにとったら人気絶頂期でもあり、その後の梅宮アンナさんと交際していた頃が人生の絶頂期とも言えるかもしれません。
羽賀研二と言えば梅宮アンナ
高校卒業と同時に見事に芸能界デビューを果たした羽賀研二さん。
いいとも青年隊から一気に人気者になりました。
とりわけ梅宮アンナさんと交際をしていた時期が、羽賀研二さんにとって芸能界でも人生でも一番充実していた時期だったように思います。
羽賀研二さんと言えば梅宮アンナさんは外せませんね。
1994年に梅宮アンナさんとの熱愛が報道されました。
梅宮アンナさんは当時、20代女子向けファッション雑誌「JJ」の人気モデルでした。
人気モデルで梅宮辰夫さんの娘ということもあり、羽賀研二さんとの交際は世間からの注目の的となり、梅宮アンナさんと羽賀研二さんは「バカップル」と言われるほど、破天荒なまでの交際ぶりを世間に披露していたんですね。
羽賀研二と梅宮アンナのペアヌード
とりわけ衝撃だったのが、お二人のペアヌードの写真集「アンナの日記」を発売したことです。
梅宮辰夫さんは、この写真集について記者から感想を問われると「そんなの見たくもないよ!」と仏頂面で答えていたのが今でも記憶に残っています。
そんな親にも見せられないような過激な内容の写真集だったようですよ。
ちなみにこちらの写真集ですが、アマゾンで購入しようとするとアダルト商品となっており、18歳以下は購入出来ないようです。
つまり「アンナの日記」のペアヌード写真集が、それ程の内容だということですね。
親にしたらそんなの見たくもないというのは、ごもっともです。
当時の梅宮アンナさんも羽賀研二さんも怖いもの知らずで、これ見よがしな感じにこのペアヌードの出版を得意になっていたような印象に残っています。
羽賀研二の稀代のワルとは?
羽賀研二さんと梅宮アンナさんは、ペアヌードの写真集を出す程の仲でしたが、梅宮辰夫さんからは交際を猛反対されていました。
と言うのも梅宮辰夫さんは、羽賀研二さんの人柄を見抜いていたからなんでしょうね。
梅宮辰夫さんから羽賀研二さんは、「稀代のワル」というレッテルを貼られてしまいます。
羽賀研二さんが梅宮アンナさんとの交際が発覚した時に、羽賀研二さんに借金があることが判明。
羽賀研二さんは、梅宮家の財産狙いでアンナさんに近づいたことも言われており、ペアヌードの写真集も借金返済の目的もあったようです。
実際に梅宮アンナさんはテレビに出演された時に、つい最近まで羽賀研二さんに負わされた借金の返済をしていたことを明かしています。
その総額8000万円だそうですよ!
8000万円もの借金をアンナさんに肩代わりさせるように、羽賀研二さんは裏で上手く操っていたようです。
その手口、プロの詐欺師ですね!
羽賀研二と梅宮アンナの破局
羽賀研二さんと梅宮アンナさんの破局は、桜庭あつこさんが羽賀研二さんとの浮気をマスコミに暴露して終止符が打たれることになりました。
羽賀研二さんは桜庭あつこさんの売名行為だと反論をしたようですが、アンナさんの気持ちは羽賀さんから離れていってしまい、自然消滅のような形で破局となったようです。
アンナさんにしたらいいように利用されてしまった感じですが、この経験を学びと捉えるには、辛すぎるかもしれませんね。
破局後の羽賀研二
梅宮アンナさんと破局となったその後の羽賀研二さんは、しばらく芸能界からは身を引きました。
破局後は宝石商に転身!
さも胡散臭いですよね~!
原価の何倍もの金額で売りさばいていたようです。
幼少期の悲惨な環境と持って生まれて遺伝子のせいなのか、人を騙すことに何の罪悪感もないよう人格の持ち主だということです。
まとめ
今回は、次々に悪行が明るみになる羽賀研二さんの生い立ちについてお伝えしてきました。
羽賀研二さんが更生されることは、もうないのでしょうか?
このまま獄中で人生が終わってしまうかのような、そんな気がしてなりません。
辛すぎる生い立ちだったかもしれませんが、いくらでも自分で良い方向に切り開いて行くことが出来るのが人生です。
実際に「いいとも青年隊」で人気者になれる素質を持っていたのに、残念でなりませんね。
羽賀研二の元嫁についてはこちら
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