日本の元祖アイドルと言われた女優の明日待子さん。
明日待子さんは戦前戦後にかけて舞台やCMのポスターモデルとして活躍されていた女優さんで、「元祖会いに行ける女優さん」として話題を集めていました。
そんな元祖アイドルと言われた明日待子さんの夫となった方はどんな方だったのでしょうか?
この記事では明日待子さんの夫について、また結婚後の明日待子さんの様子などをまとめています。
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明日待子の夫
明日待子さんは1949年(昭和24年)の29歳の時に結婚されています。
明日待子さんの夫となった方は須貝富安さん。
明日待子さんよりも2歳年下でした。

須貝富安氏の実家は北海道で興行会社を経営しており、須貝興行(現在はSDエンターテイメント)の御曹司でした。
須貝富安氏と明日待子さんが出会った当時は、須貝富安氏は早稲田大学の学生でした。
須貝富安氏は早稲田大学の空手部を創設した人物でもあり、文武両道に優れていたようです。
明日待子さんは、戦前にかけて舞台をメインに活躍する女優さんでCMにも引っ張りだこ。
当時早稲田大学生だった須貝富安氏は、明日待子さんを見るために足しげくムーランルージュ新宿座に通っていたと言います。
ムーランルージュ新宿座は明日待子さんが所属する舞台だったのです。
須貝富安氏のムーランルージュ新宿座通いは、兵力不足により学生出陣する直前まで通い続けたそうです。
※学生出陣とは、兵力不足のため学生が兵隊として戦争に参加すること
明日待子さんと須貝富安氏は終戦から4年後の1949年に結婚。
明日待子さんと須貝富安氏の関係は、女優とファンと言う立場からの結婚だったのです。
須貝富安氏の一途な思いが伝わってくるようです。
須貝富安氏は結婚を機に実家の会社を継ぐために北海道札幌市の実家に戻ります。
それと同時に明日待子さんも須貝富安氏と共に札幌に移住しています。
須貝富安氏の実家の須貝興行の現在は、SDエンターテイメントとしてフィットネス事業や介護事業、保育事業、カフェ事業など幅広く手掛けており、上手く時代の流行を取り入れながら事業拡大に成功されている優れてた企業です。
明日待子さんの夫の須貝富安氏は2017年に94歳で逝去されています。
明日待子さんの夫、須貝富安氏は自分が好きになった元祖アイドルとして人気を博していた女優さんと結婚。
また事業の成功、そして94歳の大往生。
須貝富安氏にとっては、充実した人生だったのではないでしょうか。
明日待子のプロフィール
明日待子さんのプロフィールです。
- 本名: 小野寺とし子(結婚して須貝とし子)
- 生年月日: 1920年3月1日
- 死没年月日: 2019年7月14日(享年99歳)
- 出身地: 岩手県釜石市
明日待子さんは1920年に岩手県釜石市に9人兄弟の末っ子として誕生しています。
幼い頃から日本舞踊を習っており、可愛らしい容姿は地元でも評判でした。
明日待子さんが13歳の時にムーランルージュの地方巡業が釜石市で行われました。
それを見に行っていた明日待子さんは、俳優の有馬是馬氏にスカウトされます。
そして13歳でムーランルージュに即入団を決定し、女優を目指して上京。
戦前から戦後にかけて新宿区に存在していた大衆劇場のムーランルージュの看板女優として舞台をメインに活躍をされています。
舞台の他には、雑誌のグラビア、ライオン歯磨きやキッコーマン醤油、花王石鹸のCMポスターに起用されモデルとしても活躍されてきました。
またカルピスでは初代CMガールとして起用されており、その後カルピスのCMガールは若手女優の登竜門の位置づけとなっています。
明日待子さんは舞台だけでなく、映画女優としても活躍。
「風車」や「春爛漫狸祭」、「鉄路の薔薇」などに出演されています。
「明しき明日」のレコードも出しており、歌手としての一面もあったようです。
29歳で須貝興行の御曹司、須貝富安氏と結婚してからは、札幌に移住。
結婚後は二人の娘さんに恵まれました。
また結婚後は女優は引退し、札幌で舞踊研究所を開設。
1994年には正統五條流宗家家元、五條珠淑(ごじょう たまとし)を襲名し、日本舞踊家の師範として活躍。
後に明日待子さんの次女が後を継いでいます。
明日待子さんの次女は「五條淑妃」として活動されているとのことです。
明日待子さんは2019年7月14日に老衰により99歳でこの世を去っています。
元祖アイドルとして注目を集めた明日待子さん。
アイドルに相応しい穏やかで満ち足りた晩年を迎えられたようです。
まとめ
元祖アイドルと言われた明日待子さんの結婚した夫について、また結婚後の様子を紹介しました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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