横山やすしの晩年の姿が虚しい!死因は重度のアルコール依存症が原因

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天才漫才師として活躍された横山やすしさん。

大阪人らしい矢継ぎ早に出てくるトークがとても面白く人気を博していましたが、不祥事も尽きることがありませんでした。

いつしかテレビに出演する機会もすっかり減ってしまい、気づけば51歳の若さでこの世をさってしまった横山やすしさん。

横山やすしさんはどんな晩年を過ごしていたのでしょうか?

この記事では横山やすしさんの晩年の様子と死因についてまとめています。

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横山やすしの晩年

横山やすしさんは1996年1月21日にこの世を去っています。

享年51歳でした。

横山やすしさんの晩年は所属していた吉本興業から解雇され、芸能界からは干された状態に。

そもそも横山やすしさんが芸能界から干されることになった理由は、横山やすしさんの度重なる不祥事が大きな原因とも言われています。

また、漫才コンビを組んでいた西川きよしさんとの関係も大きく影響されていたようです。

少し詳しく見ていきましょう。

まずは、不祥事から。

横山やすしさんの破天荒な性格がそのまま不祥事に繋がってしまったような感じではありますが、本当にやりたい放題思うままに生きてきた人だということが分かるようなエピソードでもあります。

1970年:タクシー運転手への傷害と無免許運転で起訴

横山やすしさんはタクシーに乗車した際に、タクシーの運転手を無理やり交代し運転。

横山やすしさんは2年4か月の謹慎処分を受けています。

1977年: タクシー運転手に無差別的暴言

横山やすしさんはタクシーの運転手に対して、無差別的な暴言を吐いた上に車体を蹴り、民事裁判で慰謝料10万円を支払う

1982年: コメンテーターとしてレギュラー出演していた生放送の番組で放送禁止用語連発

横山やすしさんは、「久米宏のテレビスクランブルにレギュラー出演していましたが、生放送の番組の中で放送禁止用語を連発したり、放送中にトイレに立ったり、観客に話しかけるなど問題行為を連発

1984年: 飛行機に乗り遅れ、生放送に穴をあける

この件で横山やすしさんは生放送の番組降板と吉本興業から無期限の謹慎処分を言い渡されます

1987年12月: スター爆笑Q&Aの司会を担当するも、ゲストに暴言を吐き降板

198年: 二日酔いでレギュラー番組「三枝やすし興奮テレビ」をドタキャン

ドタキャンが原因で番組を降板

1989年4月: 飲酒運転で人身事故

横山やすしさんは飲酒運転でバイクに乗っていた人を人身事故を起こします。

会見では「わざとやったわけじゃなので、どうぞよろしくお願いいたします。」と人身事故を軽視した発言をし非難されています。

ここで、吉本興行の堪忍袋の緒が切れて横山やすしさんは、吉本興業を解雇されています。

ざっと見ただけでも、これだけの不祥事を起こしています。

まさに、横山やすしさんの破天荒ぶりが伺えます。

横山やすしさんの晩年はお酒に溺れた状態となっていたようです。

これには、漫才コンビを組んでいた西川きよしさんとの関係が大きかったようです。

西川きよしさんは1986年に第14回参議院議員通常選挙に出馬し、初当選を果たしています。

西川きよしさんが国会議員になったことで、きよしさんと漫才が出来なくなった横山やすしさん。

天職であった漫才が出来なくなった横山やすしさんはお酒の量が次第に増えていきました。

実際に、横山やすしさんは西川きよしさんの政界入りを「裏切り」と強く反発していたとのこと。

また、横山やすしさんの漫才に対する熱い思いは誰よりも強かったことも有名で、その熱意の強さに相方との価値観に違いが生じて何度もコンビを組んでは解散を繰り返していたのです。

解散と結成を繰り返していた横山きよしさんは、「コンビ別れの名人」とも言われるほどでした。

それだけ、横山やすしさんの漫才の熱の入れようは凄まじかったのです。

横山やすしさんと西川きよしさんの間にもいつしか、漫才に対するすれ違いが生じて行ったようです。

「楽しみの少ない人のところに行ってでも漫才をやりたい。」と述べる横山やすしさんに対して、西川きよしさんは、「俺は他人の人のために漫才はせえへんよ。」と主張。

西川きよしさんは政界への道を歩み始めます。

横山やすしさんは西川きよしさんの政界入りで、漫才の道が閉ざされたことに失望していたとも言われています。

横山やすしさんは根っから漫才が好きだったことが伝わってきます。

西川きよしさんとの歯車が狂ってきたころから、横山やすしさんの酒量は増えていきました。

1986年4月には不摂生から吐血し緊急入院。

退院会見では二度と飲酒しないと宣言するも、お酒は辞められなかったようです。

1989年4月に飲酒運転で人身事故を起こしてことが引き金となり、吉本興業を解雇されています。

吉本興業から解雇された横山やすしさんは収入が途絶えました。

変わって妻の啓子夫人はNHKの集金のパートタイマーに出るなどして家計を支えるようになります。

一方で、晩年の横山やすしさんは芸能界復帰を試み、Vシネマで俳優活動を始めます。

Vシネマとは、ビデオ専用に作られる映画のことで、劇場などでは公開されません。

販売用のビデオ作品、またはレンタル用のビデオ作品として作られています。

Vシネマで俳優をし芸能界復帰を試みますが、依然として過去の不祥事が祟りテレビ界では横山やすしさんを使おうとするところはありませんでした。

また、横山やすしさんは漫才師としての復帰の試しており、啓子夫人と夫婦で漫才コンビを組んで売り出そうと試みたこともありましたが、実現することはありませんでした。

この頃は、過去に親しくしていた芸人仲間や漫才コンビを組んでいた西川きよしさん、また芸能関係者は殆どと言ってもいいくらいに横山やすしさんから離れていった時期でもあったのです。

晩年の横山やすしさんは寂しい生活を送られていたようです。

芸能界復帰を試みるも上手くいかず、次の手に出たのは選挙出馬でした。

1992年に右翼団体「風の会」から第16回参議院議員通常選挙に出馬するも落選。

落選後のインタビューでは「国民がアホや!」と。

この言葉は流行語にもなりました。

1992年には何者かによって暴行をされるという事件にも巻き込まれた横山やすしさん。

さん。

この事件で横山やすしさんは一時的に失語症になってしまいます。

結局、犯人は捕まっておらず、当時横山やすしさんが人妻と不倫をしており素の不倫相手の夫から報復を受けたとも噂されました。

横山やすしさんが亡くなる約半年前の1995年7月。

公の場に姿を現したのは、京都の八幡氏の右清八幡宮での太鼓まつりにゲストで出演でした。

当時横山やすしさんは50歳という年齢でしたが、体は老け込んでやつれており、ふらつきもあり高齢者のようだったと観客は騒然としたと言います。

金銭的にも借金で首が回らなくなっていたと言います。

亡くなる前の数年間は山口組の幹部のお世話にもなっていたことが、2019年の週刊新潮の取材でも明かになっています。

かつては漫才で一世を風靡した横山やすしさんですが、気の荒い性格が災いしてか、晩年は見るに忍びない姿に変わり果ててしまったようです。

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横山やすしの死因

横山やすしさんは1986年1月21日に51歳で亡くなっています。

横山やすしさんの死因はアルコール性肝硬変でした。

1986年にアルコール依存症と診断。

また重度の慢性肝炎とも診断されていました。

お医者さんからはお酒を辞めなければ10年以内に死亡するとの忠告も受けていたそうです。

しかし横山やすしさんは医師からの忠告を無視し、お酒を飲み続けました。

亡くなる前の晩にも大量のビールを飲んでいたそうで、体調の悪さを自分でも実感していたのです。

妻の啓子夫人に「ちょっと調子がおかしいから明日病院へ行かなあかん。」と話していた矢先のことでした。

自宅で意識を失った状態のところを啓子夫人が発見。

すぐに救急搬送されましたが、啓子夫人が発見した際は既に心臓と呼吸が止まった状態だったと言い、搬送先の病院で死亡が確認されたのです。

横山やすしさんの波乱に満ちた人生に幕が下りました。

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横山やすしの生い立ち

最後に横山やすしさんの生い立ちを紹介します。

横山やすしさんの生い立ちは、破天荒な人生にマッチするように生い立ちもかなり波乱に満ちていました。

まずは横山やすしさんのプロフィールです。

本名: 木村雄二

生年月日: 1944年3月18日

死没年月日: 1996年1月21日(享年51歳)

出生地: 高知県宿毛市沖の島

出身地: 大阪府堺市(現在は堺区)

横山やすしさんは太平洋戦争のさなか、1944年3月に高知県沖ノ島で誕生しています。

横山やすしさんの父親は巡業して回る旅芸人でした。

母親は沖の島の旅館の仲居として働いていた女性で、父親とは巡業で知り合っています。

知り合ったと言うよりも一晩だけの関係であったようですね。

思いもよらずに身ごもってしまった横山やすしさんの母親は婚外子としてやすしさんを出産します。

やがて戦争が激化するなか横山やすしさんは、高知県に疎開していた木村夫妻に養子に出されます。

生後3ヵ月ですから、横山やすしさんは木村夫妻を本当の両親だと思っていたことでしょう。

養子先では、恵まれた環境で育てられたようです。

横山やすしさんは堺市立旭中学校に進学。

同級生はラジオ番組の歌合戦で合格したことに感化され、横山やすしさんも素人参加型のラジオ番組「漫才教室」に参加。

これが、横山やすしさんの漫才の道に進む大きな起点となっています。

旭中学校を卒業した横山やすしさんは、高校には進学せずに「松竹新演芸(現在の松竹芸能)」に入社。

漫才作家に弟子入りをし修行を積みながら最終的に、当時大人気を博していた横山ノックさんの弟子入りにより、所属事務所も吉本興業に移り芸名も「横山やすし」として漫才師の道を切り開くことになるのでした。

西川きよしさんと漫才コンビを結成したのは1966年のことで、結成から一年も経たずにブレイクするなど、たちまち漫才界での人気者にのし上がっていったのでした。

その後、人気絶頂期を経て数々の不祥事と共に芸能生活を送ることになるのでした。

横山やすしさんの生い立ちは私生児として誕生しており、破天荒さはこの生い立ちにも少し関係しているのかなとも思える横山やすしさんの人生でした。

私生活では2度の結婚歴がありました。

1969年11月には最初の奥さんとなった方との間に木村一八さんが誕生していますが、4年後の1973年に最初の妻とは離婚。

当時、親権は奥さんが持ちますが経済的理由で後に親権はやすしさんに渡り一八さんが10歳の頃から生活を共にしています。

後に木村一八さんは芸能界デビューし、親の七光りをモノともせずに俳優としてブレイクしますが、父親同様度重なる不祥事で表舞台で見かけることも少なくなってしまいました。

2年後の1975年に3歳年下の一般人の啓子夫人と再婚をしています。

啓子夫人との間には二人の娘さんに恵まれており、妹のひかりさんは宮川大輔花子さんの長女さんと漫才コンビを結成し、漫才師として活躍されています。

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まとめ

横山やすしさんの晩年の様子や死因、生い立ちについて紹介しました。

最後までお読み下さりありがとうございます。

横山やすしさんの息子さんの現在の様子はこちらの記事に詳しく書かれています。

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