2024年から5000円札の図柄に決まったのが津田梅子。
津田梅子は歴史の教科書にはあまり登場した記憶がありません。
それ故に津田梅子が何をしたした人なのかあまり認知されていないでしょうか。
そこでこの記事では津田梅子が何をした人なのか分かりやすく紹介しています。
津田梅子は何をした人?
津田梅子は現在の津田塾大学を作られた方です。
津田梅子は女性の教育について重要性を訴え、女性が学べる学塾を開設。
その学塾は1900年(明治33年)に開設された女子英学塾。
後の津田塾大学となっています。
津田塾大学は津田梅子の「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指し、津田塾大学の前身となる女子英学塾を開設しています。
その津田梅子の思いは現在もしっかりと受け継がれており、津田塾大学は「「変革を担う女性の育成」を使命とし人生を変える濃密な4年間を約束します。」と理念を掲げています。
そして津田塾大学は現在も女子だけの大学となっており、たくさんの女性が学び立派に巣立っています。
津田梅子が設立した津田塾大学は津田梅子の原点とも言える英語教育や留学、国際交流が強みの大学です。
津田塾大学はどのようにして梅子によって開かれて行ったのでしょうか。
津田梅子が女子英学塾を設立するまでには、大変な経験を積んでいます。
まずは津田梅子の壮絶とも言えるべく生い立ちかを次項より紹介します。
津田梅子の生い立ち
津田梅子の生い立ちはかなり壮絶と言っていいでしょう。
なんと6歳にして父親からアメリカ留学に行かされているのです。
この当時にして最先端な教育方針を6歳の娘に課した津田梅子の父親に衝撃を受けますが、実は津田梅子の父親自身も1867年に江戸幕府の遣米使節の通訳として渡米した経験を持っていました。
津田梅子の父親は津田仙(つだ せん)。
梅子の父親は子供の頃から英語やオランダ語を学んでおり、通訳をして江戸幕府に使えていました。
1867年遣米使節の通訳として渡米した梅子の父親仙は、アメリカでの大規模な農業や男女平等の社会を目の当たりにして帰国。
娘の梅子にも英語の教育の重要性をいち早く確信していたものと思われます。
それにしても江戸幕末時代の現在から比較するとモノも十分でないこの時代に於いて、英語やオランダ語を習得した梅子の父親仙に於いては、ただただ感服するばかりです。
この恵まれた時代に努力次第で何でも出来る、そんな思いが沸いてきます。
前置きが長くなりました。
津田梅子は江戸幕府に使えていた父親津田仙の次女として1864年12月31日に誕生しています。
今から158年前のこと。
出身地は現在の東京都新宿区南町に誕生しています。
津田梅子の父親は幕臣として務めていましたが、江戸幕府の崩壊と共に無職になってしまいます。
1869年(明治2年)に築地のホテルの勤務に従事。
一家で新宿から向島に移り、ホテル勤務の傍らで西洋野菜の栽培などを手掛けています。
梅子は父親の農園の手伝いなどをしながらのびのびと成長します。
そんな梅子の運命の分かれ道と言ってもいいでしょう。
1871年(明治4年、)梅子が6歳の時に父親仙の勧めで岩倉使節団の一員として終わ元を離れアメリカに留学します。
次項より津田梅子の留学生活について詳しく見ていきましょう。
津田梅子のアメリカ留学
津田梅子は岩倉使節団のメンバーの一人としてアメリカ留学に向かいます。
岩倉使節団は岩倉具視が全権を有していたっ使節団で、日本からアメリカやヨーロッパ諸国に派遣された使節団で、使節や随員、留学生など総勢107名によって構成されました。
その107名の中の一員をして津田梅子はアメリカ留学に6歳にして向かいます。
津田梅子は1871年11月12日に横浜港から蒸気船アメリカ号で出発。
その中には大久保利通や伊藤博文も使節として参加しています。
梅子らを乗せた蒸気船アメリカ号は約一ヵ月かけてアメリカのサンフランシスコに到着。
岩倉使節団一行はサンフランシスコからワシントンに向かいます。
日本と全く違うアメリカの景色を梅子はどのような思いで見ていたのでしょうか。
アメリカに到着したばかりの当時の津田梅子がこちら。
津田梅子はワシントン郊外ジョージタウンのランマニ夫妻の家でお世話になります。
6歳の梅子は徐々にアメリカの生活にも慣れていき、2年後には梅子自らがキリストの洗礼を受けたいとら夫妻に申し出ます。
1873年フィラデルフィア近郊の教会で洗礼を受け、初等科教育を終えた梅子は8歳になると私立の女子校で英語やフランス語を学び始めています。
津田梅子のアメリカ留学は10年間で1881年には帰国の予定となっていましたが、梅子は一年間の延長を自ら希望しました。
そして1882年(明治15年)7月梅子は17歳となって帰国します。
明治15年の日本と言えばようやく日本銀行券が発行された時代でした。
またこの年に上野動物園が開園されています。
アメリカの最先端の文化を見てきた梅子にとって、明治時代の日本にはカルチャーショックでしかなかったとのこと。
帰国後の津田梅子がこちら。
6歳だった津田梅子は立派に成長し、アメリカの文化や語学を習得して日本に帰国しました。
6歳からアメリカでの英活に馴染んだ津田梅子は17歳で帰国する頃には日本語がほとんど話せない状態だったと言います。
通訳が必要なレベルだったそうですよ。
明治時代の日本はまだまだ男性社会で女性の出る幕はありませんでした。
留学から帰ってきた津田梅子でさえも職を与えらず、国費で留学したことに申し訳ない気持ちと自分の出る幕がなことに相当のショックを受けた梅子でした。
梅子と一緒に留学した女子は帰国後や早々に結婚をしていました。
梅子にも縁談がひっきりなしにあったそうですが、梅子は縁談の話を聞くたびにうんざりした思いで一杯だったのこと。
梅子はこの頃から自分は一生結婚はしないと心に決めていたと言います。
政府からなかなか仕事がもらえなかった梅子は伊藤博文の家の家庭教師としての仕事を与えられました。
その後1885年(明治18年)に華族女学校の英語の教師として教壇に立つことになります。
華族女学校は現在の学習院大学で、当時は天皇の命令により華族の女子の教育目的の学校でした。
津田梅子は華族女学校で英語を教えながら再びアメリカに行くことを希望していました。
梅子にとっての日本は窮屈に感じられたのでしょうか。
再びアメリカに行くことを模索し始めていました。
津田梅子再びアメリカ留学
華族女学校の教壇に立ちながら、再びアメリカ留学を模索し始めた梅子は、留学時代のアメリカの友人の協力によって授業料免除を得ることが出来ました。
1889年(明治22年)梅子は24歳にして2年間の予定でアメリカに渡米します。
梅子はブリンマー大学で生物学を学びます。
ここで学んだ生物学では1894年に「カエルの卵の発生」の論文は学術雑誌にも掲載されました。
また梅子は改めて女性の教育の重要性を実感。
人に物事を教える教育法について学びたいと、オゴウィゴー師範学校でも教育法を学んでいます。
1892年(明治25年)に梅子は帰国。
帰国後は再び華族女学校の教壇に立つと共に明治学院大学でも教え始めています。
どこまでも向上心が旺盛だた津田梅子は、その後も再びアメリカ、またイギリス留学も実現。
このようにして自分で学びながら女性の教育の重要性を訴え続け、いよいよ津田塾大学設立に繋がって行ったのでした。
津田梅子女子英学塾設立
アメリカ留学やイギリス留学の経験で女性の地位向上のためには専門的な知識や学問が必要と確信した津田梅子は、1900年(明治33年)に女子英学塾を設立します。
これまでの女学校のような花嫁修業的なお作法などを教えるのではなく、少人数でレベルの高い教育を目的に女子英学塾は開かれました。
梅子の開いた女子英学塾は初年度は全国から10名ほどの生徒が集まったそうです。
梅子は資金援助を最小限にとどめる為に、自らと友人たちが無償で少女たちの教育にあたりました。
女子英学塾では英語を学び将来的に教師になるまでの教育を施し、多くの志の高い女子が巣立っていきました。
津田梅子は日本人女性の活躍の場を大きく切り開いていった第一人者となっていきました。
梅子が開いた女子英学塾、津田塾発祥の地は東京都千代田区一番町。
現在は商業ビルが建っており、当時の面影は一切ありません。
津田梅子の生涯
明治時代を自らの学びと女子の教育の為に邁進した津田梅子。
梅子は生涯独身でした。
しかし、結婚はしませんでしたが養子縁組で津田眞を養子に迎えています。
梅子は1929年(昭和4年)8月16日に脳出血のため64歳でこの世を去りました。
梅子は英語で日記をつける習慣があり、亡くなる直前に日記に記されたのが「storm last night」(昨夜は嵐だった)の言葉を書き残しています。
津田梅子の人生は嵐のように過ぎ去ったと言ってもいいでしょう。
もしかすると殆どの人の人生も気が付けば嵐のように過ぎ去ったと、振り返ってみればそのように思うのかもしれません。
こうして津田梅子のギュッと濃縮した人生は幕を下ろしました。
女子英学塾は後に津田英学塾に改名するも、校舎は戦災で消滅。
そして津田塾大学として正式に落成し開校されたのは1948年(昭和23年)。
梅子が亡くなってから19年後のことでした。
梅子のお墓は東京都小平市の津田塾大学の校内にあります。
津田塾大学はこのようにして津田梅子が生涯をかけて開設した大学です。
現在もたくさんの女性が高い志を持って学んでいます。
まとめ
2024年から5000円札の図柄になる津田梅子について何をした人なのかをわかりやすく紹介しました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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