史上最大の詐欺商法と言われる豊田商事事件をご存知でしょうか?
豊田商事事件の被害者となったのは会長の永野一男氏。
永野一男氏は悪の極みとも言える手法で顧客から2000億円もの大金を集めることに成功。
しかし、永野一男氏はマスコミが見守る中で2人組の男によって惨殺されるという前代未聞の殺人事件中継とう結末でこの世を去ることになりました。
この記事では豊田商事事件の詳細と犯人の現在の様子や事件現場となた永野一男氏のマンションについてまとめています。
豊田商事事件の詳細
まずは、豊田商事事件について紹介します。
豊田商事は1981年に永野一男氏によって大阪府北区梅田で設立された会社で、営業目的は貴金属の販売、有価証券の保有利用等となっています。
法人化する前は、永野一男氏が名古屋で「豊田商事」の商号で金地金の商品取引を行っていました。
「豊田商事」の名前ですが、これは「豊田商事」にすることでトヨタ自動車のグループ企業と思われる恩恵を見計らって、「豊田商事」と付けたと言われています。
※豊田商事とトヨタ自動車は一切何の関係もありません。
金地金の商品取引を名目に営業をしていた豊田商事ですが、実際は詐欺手法により高齢者や母子家庭の女性をターゲットに弱者からお金を騙し取り、実態は証券という名目の紙切れしか手元に残らない現物まがい商法(ペーパー商法)でした。
史上最大の詐欺商法と言われた手口でその被害者3万人、被害総額は2000億円に上ったと言われています。
時代はバブルがはじけ、純金に対する関心が高まりかけている時でした。
純金に目をつけた豊田商事は顧客に純金の購入を勧め、「純金ファミリー契約証券」の紙切れとお金を引き替えに資金を集めました。
勧誘の手口はあらゆる家庭い勧誘の電話をかけて、脈がありそうな家庭に近づきます。
営業マンは訪問先の家のお仏壇にお線香を上げたり見辺の世話をして、顧客に「家族だと思って」などと人情味あふれる接客で近づき、インチキな契約を次々に結んでいきました。
そうして集めた資金は2000億円に。
豊田商事は全国に60店舗、7500人の従業員がいたとされています。
高額な歩合給支給も注目され、トップ営業マンは2000万円から6000万円の高額な報酬を得ていた人もいるようです。
永野一男氏も高級車を何台も所有し、自家用ジェット機まで手に入れていたと言われています。
しかし、そのような豊田商事の悪徳商法に苦情が集中し、社会問題に発展していきます。
国民生活センターによって豊田商事関連の110番も設置される事態に発展していったのです。
1985年6月18日午後4時半ごろ。
永野一男氏が詐欺容疑で逮捕されるのでは?と聞きつけたマスコミは、永野一男氏の自宅マンションに逮捕の瞬間を撮影しようと、カメラを持って待機していました。
そこに突如、二人の男が乱入。
男は窓ガラスをぶち壊して永野一男氏の自宅に飛び込んでいったのです。
その90秒後に返り血を浴びた二人の男が出てきたのです。
男は、「俺たちが犯人だ。警察を呼べ。」と言って、再び永野一男氏の部屋に入っていったと言います。
2.3分して部屋から出てきた男は、「これで死んどらかったらまたやったる。87歳のボケ老人を騙しくさって、850万円も取ったんやから当然の報いじゃ。」と勝ち誇ったように言ったそうです。
2人の男は駆け付けた警察官によって連行されました。
永野一男氏は全身13カ所斬られており、左脇腹の深さ18センチが致命傷となり出血多量で搬送先の病で死亡が確認されました。
この時、永野一男氏のポケットには711円が入った黒い財布が出てきたそうです。
永野一男氏32歳でした。
永野一男氏の自宅マンションは大阪府大阪市北区天神橋にある1987年に建てられたマンションだったとのこと。
永野一男の生い立ち
永野一男氏は1952年(昭和27年)8月1日に岐阜県恵那市東野に生まれています。
もし、永野一男氏が生きていたら2022年で70歳です。
15歳の時に何らかの事情ででしょうか、親戚の叔父に預けられ叔父の家から中学校に通っています。
中学卒業後は集団就職で愛知県の日本電装(現在のデンソー)刈谷工場に就職しています。
しかし2年で退職。
その後は消火器のセールスを経て、商品取り引きの外務員になったときは21歳にして年収6700万円を稼いでいます。
しかし、顧客から預かった3000万円を小豆相場につぎ込み1800万円の損失を出してしまい、会社にバレて回顧。
その後はダイヤモンドのセールスなどをしながら職を転々としながら豊田商事設立に至っています。
私生活では生涯独身を貫いていました。
豊田商事事件の犯人の現在は?
1985年6月18日。
永野一男氏の自宅マンションに乱入して永野一男氏を殺害した犯人は2人組の男でした。
主犯格と言われたのが飯田篤郎、当時56歳。
もう一人は矢野正計、当時30歳。
主犯格となった飯田篤郎は大阪府豊中市で鉄工所を営んでいました。
飯田篤郎の営む鉄工所は障害者や高齢者を積極的に雇い入れていたそうです。
しかし、下請け会社に騙されたり、不景気の影響で1984年に5億円の借金を抱えて倒産。
飯田篤郎は高齢者を食い物にする豊田商事の手口が許せなかったと述べています。
高齢者や障害者を積極的に雇い入れていた飯田篤郎にとっては、高齢者に対する思いやりが伝わってくるようでもあります。
飯田篤郎は逮捕されてから「命を奪うつもりはなかかったここと、マスコミに煽られてやってしまった。」と述べています。
裁判所は飯田篤郎のこの言い分を信用できるものとし、懲役10年の判決が下されました。
飯田篤郎は出所後、近畿地方の3DKの家賃7万円のアパートに妻と子供とひっそりと暮らしていたそうです。
豊田商事事件から37年経った現在は、生きていれば飯田篤郎は91歳になっている計算です。
もう一人の主犯格となったのは矢野正計。
事件当時30歳でした。
矢野正計は飯田篤郎に恩義があり、犯行に協力したと言われているようです。
矢野正計には懲役8年の実刑判決が下されました。
矢野正計は出所後、美人な妻と5人の子供に恵まれたとの情報があります。
出所後は大阪に住んで雀荘を経営していたようですが、2010年頃に広島に移住したということです。
2022年で矢野正計は67歳になっているようです。
まとめ
豊田商事事件の犯人の現在や永野一男氏の自宅マンションについて紹介しました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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