日本のプロレス界の父と言われた力道山。
偉大なプロレスラーとの印象が強いですが、実は無念にも39歳の若さでこの世を去っています。
力道山は何故死んでしまったのでしょうか?
また力道山は刺されて亡くなったと言われていますが、力道山を殺したのは誰なのでしょうか?
この記事では力道山の死因と殺した人についてまとめています。
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力道山の死因は?
まずは力道山の簡単なプロフィールから紹介します。
- 本名: 百田光浩(ももた みつひろ)
- 出生名: 金信洛(きん しんらく)
- 生年月日: 1924年11月14日
- 死没年月日: 1963年12月16日(享年39歳)
- 身長: 176センチ
- 体重:116キロ
力道山はプロレスラーとして有名ですが、元力士でもあります。
二子山部屋に所属しており、最高位は西の関脇でした。
元々、気性の激しい性格だったようで、酔うとあたりかまわず暴れることで有名で周囲から疎まれる存在でもあったとのこと。
また金銭トラブルなどで二所ノ関親方から叱責されることも多かったのだとか。
いわゆる問題児であったようです。
力士を引退後、アメリカに渡り一年間ホノルルで日系人レスラーの特訓を受けプロレスラーとしての道を歩み始めています。
力道山は1963年12月15日に39歳の若さでこの世を去っています。
力道山の直接の死因に繋がったのは、腹部を刃物で刺されたことによることからでした。
時は1963年12月8日、夜の赤坂のナイトクラブ。
赤坂のナイトクラブでお酒を楽しんでいた力道山は、脇を通りがかった暴力団員に対して「俺の足を踏んだな。」といちゃもんを付けました。
この暴力団員は身に覚えのないことだったので、「踏んだ覚えはない。」と反論したことで口論になりました。
この男性は更に、「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放ち、懐に手を入れた仕草はまるで刃物を出す素振りのようだったとのこと。
大事になりそうになったことから、「分かった。仲直りをしよう。」と力道山は提案するも、暴力団員は「このようなことをされて俺の立場がない。」と力道山からの提案を拒否します。
拒否された力道山は和解を諦め暴力団員の顎を拳で突き上げ、倒れた組員に馬乗りになり激しく殴打したと言います。
殺されると思った組員はナイフを出し力道山の左脇腹を刺したのです。
ナイフは力道山の脂肪に達するほどに深く突き刺さったと言います。
組員にナイフで刺された力道山は当時、妻の敬子夫人が妊娠7か月で通院していた山王病院で応急処置をして帰宅します。
敬子夫人の通っていた産婦人科にしたのは、ここの先生と力道山が親しい関係だったことと、世間に知られることを防ぐためだったとのこと。
しかし、二日目に体調が悪化。
再び婦人科の山王病院に入院し、国際聖路加国際病院から外科医に来てもらい手術を受け成功。
側近たちは赤坂で有名な前田外科への入院を勧めましたが、力道山は断りました。
自ら売ったケンカが原因でこのような事態になったことを公にしたくない気持ちが強かったと言います。
そして事件から7日目に腹膜炎による腸閉塞のため2度目の手術を受けますが、手術から6時間後に息を引き取りました。
敬子夫人のよりと、力道山の最後の言葉は
「俺は死にたくないぞ。」
この一言を残して天に召されたそです。
力道山の死因については諸説あり、手術の際の麻酔ミスの医療事故と言う説と手術は成功したが、術後の空腹に耐えらえなかった力道山がお寿司を食べたいと言い、術後の体でお寿司とお酒を飲食したことが患部に障りこれが原因となって体調が急変したとされる説があるようです。
いづれにしても、赤坂のナイトクラブで口論にさえならなければ力道山は命を落とさずに済んでいたことでしょう。
力道山は菩提寺のある池上本門寺で安らかに眠っています。
力道山を殺したのは誰?
赤坂のナイトクラブで暴力団員によってナイフで腹部をさされたことが致命傷になり、39歳の若さで無念にもこの世を去ることとなった力道山。
力道山をナイフで刺したのは、暴力団員の組員の村田勝志。
村田勝志は茨城県土浦市の出身で、中学時代から番長格の人物で生粋の暴力団員と言う人柄のようです。
なんでも常に握りこぶしの中にカミソリを挟んでいたことが有名で、学生時代から「カミソリ村田」の異名で周囲から恐れられた存在だったと言います。
村田勝志は、力道山の力道山殺傷事件で一躍有名になりました。
そしてもう一つ、村田勝志は女子格闘家の篠原光の父親であることで有名です。
村田勝志は1939年4月1日生まれ。
2013年4月9日に74歳で亡くなっています。
死因は糖尿病を患っており、それが悪化したとのこと。
力道山殺傷事件の当時、村田勝志は24歳という若さでした。
力道山に「俺の足を踏んだな。」と言われたときに、身に覚えのなかったことで反論したということですから、かなり度胸が据わっていたことが伺えます。
力道山と赤坂のナイトクラブで口論となった時に、ナイフを持っていたのは以前外国人プロレスラーに殴られたことがあり、護身用としてナイフを所持していたとのこと。
力道山殺傷事件の容疑者として村田勝志は懲役7年の実刑判決を受け服役。
1971年3月に出所しています。
篠原光選手は1974年に誕生していますので、村田勝志の出所後の誕生ということになります。
村田勝志は出所後、村田組組長となりその世界一筋に晩年を迎えているようです。
また、力道山の命日の翌日には欠かさずにお墓参りをして力道山の冥福を祈っていたそうです。
力道山の命日ではなく命日の翌日にお墓参りに行っていたことに関しては、力道山の遺族への配慮があったとされています。
護身用として携帯していたナイフが、思わぬところで出さずを得なかった状態になってしまったこと。
もし、あのとき力道山が足を踏まれたと勘違いしていなければ。
この事件とは無関係であったことと思います。
しかし、学生時代から「カミソリ村田」と恐れられるような行動が、この力道山殺傷事件を引き寄せたてしまったのかもしれません。
まとめ
力道山の死因について、また力道山を殺した人は誰かについて紹介しました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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