映画「女帝」のモデルになった尾上縫。
バブル絶頂期には尾上縫の周りにはいつも証券マンや銀行マンが群がっていたと言います。
金融マンが群がっていた尾上縫とは一体何者だったのでしょうか?
この記事では尾上縫が何者なのか、生い立ちから詐欺師として逮捕に至るまでの経歴などをまとめています。
尾上縫とは何者?
尾上縫は大阪で料亭「恵川」を経営していた女性実業家です。
尾上縫は、料亭「恵川」の他にも雀荘や大衆食堂「大黒や」など何店舗も経営していました。
また縫は、料亭を経営する傍らで占い師、霊媒師としての顔も持っていました。
飲食店など何店舗も経営していましたが、実際は経営の知識には乏しく経営は赤字続きだったと言います。
なぜ、赤字続きでも尾上縫は倒産せずに経営を続けていけたのでしょうか?
その理由の一つが尾上縫の男を見る目に長けていたという点でしょうか。
正式にはお金を持っている男を見抜いて、その男を引き寄せる能力と言ってもいいでしょう。
赤字続きでも潰れなかったのは、強力なスポンサーから経済資金を調達していたからなんですね。
尾上縫はバブル崩壊と共に自身の資金繰りも傾き始め、最終的には詐欺師として逮捕されるという結末を辿っています。
逮捕後は懲役12年の実刑判決を受けて刑務所に収監されていますが、2014年頃にこの世を去ったようです。
尾上縫、享年83歳~84歳だったと言われています。
それでは、尾上縫の人生について詳しく見ていきましょう。
尾上縫の生い立ち
尾上縫は1930年、奈良県の農家の5人兄弟の次女として生まれています。
尾上縫が現在生きていたら2022年で92歳になっていましたね。
尾上縫の弟の一人は幼少期の頃に栄養失調が原因で亡くなっています。
食べる物にも困るほど生活は困窮していたと言います。
そこにきて父親は縫が10歳の時に病死。
尾上縫の母親は子供4人を女手一つで育てるだけの力を持っているような母親ではなかったようです。
家事が苦手だったと言う母親は、株の仲介人をやっていた豪農の男性から金銭的に援助を受けて子供たちを育てました。
このエピソードから、尾上縫の魔性の要素は母親譲りであったことが想像できます。
1944年に高等小学校を卒業した尾上縫は働きに出ます。
最初は地元で鉄道の駅員や工場の作業員などで働いていましたが、賃金が安いことからもっと稼げる仕事を求めて大阪に出ます。
ここまでが尾上縫のざっとした生い立ちです。
家が貧しかったことや、父親の病死など、決して裕福な生まれではなかった尾上縫。
そんな尾上縫がどのようにして大阪で料亭を営むようになったのか、次項より見ていきましょう。
尾上縫の結婚と経歴
よりお金を稼げる場所を求めて大阪に出た尾上縫。
大阪に出てからの縫はデパートや水商売などで働きだしました。
そして19歳の時に結婚。
一人の娘に恵まれています。
しかし、尾上縫の結婚生活は6年間で終止符を打ちます。
縫が25歳の時に離婚。
一人娘を抱えたまま縫はスタンドバーの経営に乗り出しますが上手く行かずに断念。
生活に困った縫は娘を別れた夫に預け、大阪ミナミのすき焼き店「いろは」で仲居として働き始めます。
このお店の客層は経済界の有力者などがご贔屓にしているお店で、縫はお金を持っているお客だけを嗅ぎつける能力をここで発揮。
自分の魅力を武器に経済界のある有力者から援助を受けることに成功し、旅館「三遊」の購入にこぎつけます。
そこから尾上縫は女性実業家として料亭「恵川」や雀荘、大衆食堂「大黒や」などを経営。
不動産も所有していたと言います。
しかし、農家生まれで中学しか出ていない尾上縫には経営能力は持ち合わせていませんでした。
尾上縫の強みと言えば経営手腕ではなく、お金持ちの男を見抜く力と、その男に近づく能力に長けていたようです。
そのような縫の性格はおそらく母親譲りだったのでしょう。
尾上縫の経営は赤字続きでした。
それでも縫は経営を見直そうと言う考えは微塵もなかったようです。
神社の賽銭に数十万円を施したり、8000万円の水晶玉を購入するなど、羽振りの良い経営を続けていました。
これらの資金は縫の目によって選び抜かれた強力なスポンサーの存在から提供されていたようです。
尾上縫の相場師
強力なスポンサーの存在で経営を続けられていた尾上縫。
料亭に来るお客様を占うことを始めます。
その占いは株式取り引きや競馬の相場を占うと言うもの。
縫は神からのお告げと言っては株の上昇や競馬の勝ち馬を占っていましたが、徐々に縫の占いが当たると評判になり、料亭も繁盛するようになって行きます。
バブル経済の始まりでした。
![投資額は2兆7700億円 江本孟紀が初めて明かす“女帝相場師・尾上縫”の素顔 | デイリー新潮](https://www.smile-life-can.site/wp-content/uploads/2022/03/image.jpeg)
この頃から証券マンや銀行マンが尾上縫の元に群がるようになって行き、その集まりを「縫の会」と呼んでいたそうです。
縫は中卒であることを偽って現在の奈良女子大学卒業だと告げていたそうです。
縫は銀行から多額の融資を受けて株を購入。
バブル絶頂期には2270億円を借り入れて、株の運用益などで得た利益を400億円の定期にして持っていたと言われています。
しかし景気に陰りが見え始めると、縫の所有していた株も暴落に巻き込まれて行き、瞬く間に負債が膨らんでいきました。
1989年、尾上縫の借入金は1兆1975億円に対し返済は6821億円しかなく、借入金の利息が一日につき1億7千万円にも上っていたそうです。
想像しただけでも恐ろしい金額です。
返済に困った尾上縫は以前から染めていた詐欺の行為を本格的に計画始めたのです。
尾上縫の詐欺事件
多額の返済金をどのように調達するか、尾上縫はある考えに辿り着きます。
尾上縫は親交のあった東洋信用金庫今里支店長らと共謀し、架空の預金通帳を作らせます。
その架空の通帳を別の金融機関に持って行き、担保として差し入れていた株券や金融債と入れ替えに、引き出すことに成功。
この手口を使っては、他の金融機関からも株券などを引き出し続けました。
尾上縫はこの犯行を興銀(日本興業銀行)の担当者だけに打ち明けたました。
この事により、興銀は自行の33億円の債権を売り抜けて回収に成功。
それと同時に1991年8月13日に尾上縫は詐欺罪で逮捕に至っています。
尾上縫の逮捕にはこの興銀の担当者がキーマンになるでしょうか。
![第一章 尾上縫と日本興業銀行――産業金融の雄はなぜ大阪の女将に入れ込んだのか(1) - バブル経済事件の深層 | SlowNews (スローニュース)](https://www.smile-life-can.site/wp-content/uploads/2022/03/image-1.jpeg)
尾上縫は12の金融機関から総額2兆7736億円、支払額は2兆3060億円であったことが判明。
逮捕により拘置所内で4300億円の負債で自己破産手続きを済ませています。
4300億円は日本で史上最高額の自己破産でした。
逮捕後の尾上縫
尾上縫は、1998年3月に懲役12年の実刑判決が下されました。
尾上縫68歳のことでした。
刑務所に収監されてからの縫はほどなくして介護状態になり、一人ではなにも出来ない状態だったと言います。
そして2014年頃に亡くなったと言われており、享年83歳から84歳だとされています。
尾上縫の死後は高野山の尾上家のお墓の納骨されたそうです。
まとめ
尾上縫について何者なのか、女性実業家から詐欺師になるまでの経歴と共に紹介しました。
尾上縫は男の援助によって実業家に成りあがり、詐欺の手口で自分の懐を肥えさせた女詐欺師でしか他なりませんでした。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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