絶頂期には「体を揺らせば大金が出る。」とまで表現されるほどの羽振りの良さで時の人となった中江滋樹。
中江滋樹は兜町の風雲児ともてはやされますが、投資ジャーナル事件をきっかけに生活は一転、奈落の底に突き落とされて行きます。
最後は火災が原因で質素なアパートで焼死という結末でこの世を去りました。
この記事では投資ジャーナル事件の中江滋樹の嫁や子供について、また当時アイドルだった倉田まり子との関係をまとめています。
中江滋樹の生い立ち
まずは中江滋樹の生い立ちから見ていきましょう。
中江滋樹は1954年1月31日に滋賀県近江八幡市に生まれています。
中江滋樹が生きていれば2022年で68歳という年齢です。
中江滋樹の父親は証券会社に勤務する証券マンでした。
父親の影響で中江滋樹が小学生の頃から株式投資を始めていたとのこと。
高校生になる頃にはすっかり投資にハマっており、授業中は極秘で持ち込んだラジオ放送を聞きながら休み時間になると急いで公衆電話に走り株の売買の注文をしていたそうです。
中江滋樹の予想は的中することが多く、高校の先生からもどの株を購入したらいいか相談を受けるほどだったと言います。
また学生時代の中江滋樹の成績はかなり優秀で全国模試でも3位に入るほどの秀才ぶりだったと言います。
そんな中江滋樹の学歴がこちら。
●滋賀県立彦根東高等学校
●神戸大学経営学科中退
中江滋樹の出身校の滋賀県立彦根東高等学校は滋賀県でもトップレベルの進学校として有名で、滋賀県の公立高校では3位の位置付となっています。
彦根東高等学校の卒業生にはジャーナリストとして活躍中の田原総一朗氏や林久美子衆議院議員、田島一成衆議院議員らを輩出しています。
中江滋樹は高校在学中に名古屋の投資顧問会社「三愛経済研究所」の会員となり、投資について学んでいます。
高校生の頃には既に信用取引も行っていたとのこと。
中江滋樹は神戸大学を中退していますが中退の理由となったのは、株式投資で多額の利益を得ることが出来るようになったことで、わざわざ大学に行って勉強することはないと判断したことからでした。
中江滋樹の父親は厳格な父親であったため、大学中退をしてからは家出同然のようにして名古屋に向かっています。
名古屋では証券会社の株価の推移を黒板に書く「黒板書き」と言われたアルバイトを始めたことを皮切りに、投資に関した雑誌の発行や「絶対に儲かる売買テクニック」を披露するなど、投資の世界に一目置かれた存在となっていきました。
そして1972年(昭和47年)に中江滋樹20歳にして投資ジャーナル社を設立します。
後に投資ジャーナル事件に結びついて行くのでした。
投資ジャーナル事件とは?
絶対に儲かる売買テクニックを披露した中江滋樹は人脈の拡大に成功。
財政界や芸能界、スポーツ界にまで幅広い人脈を築いていきます。
また、ビジネスで成功するためには人脈が何より大切だと感じていた中江滋樹は、人脈を広げる事を見据えてそこにお金をつぎ込んでいきながら人脈を広げていったそうです。
そして、2割の儲けを10回続ければ元手が2倍になると言った「ツーバイツー理論」を掲げて、会員を募り巨額の資金を集めます。
また、「株を買う資金を担保の10倍まで融資する」と謳い全国の投資家から約584億円を集めるものの、資金を返しきれずに1985年に詐欺容疑で逮捕。
中江滋樹は1985年(昭和60年)投資ジャーナル事件として逮捕され、1989年(平成元年)に懲役6年の実刑判決が下されました。
中江滋樹の妻や子供は?
中江滋樹はプライべートでは結婚していたのでしょうか?
中江滋樹は結婚しており、元妻との間には5人の子供がいたとされています。
ただ、中江滋樹が投資ジャーナル事件で逮捕されると妻とは絶縁状態となり、それ以後妻と子供たちとは距離を置かざるを得なかったようです。
投資ジャーナル事件で6年の実刑判決を受けた中江滋樹は、1992年に仮出所となっています。
中江滋樹は狩り出所後に再起を図るも上手くいかずに、暴力団関係者からの借金も返せなくなりハワイに逃亡するなど荒んだ生活を送っていたようです。
2012年には「今はお金がほとんどありません。」とのコメントを残しています。
そして晩年は都内近郊を転々とする日々を送り、最終的に東京都葛飾区の南水元の家賃4万8000円のアパートが終の棲家となりました。
中江滋樹がこのアパートに辿り着いたときの持ち物は衣服のみで、生活に必要な電化製品や生活用品は中江の友人たちが持ち寄ったそうです。
2020年のお正月になると中江滋樹の体調は悪化し、オムツを着用しなければならなかったそう。
そして、2020年2月20日に一人暮らしのアパートから出火。
焼け跡からは損傷の激しい遺体が発見されました。
あまりの損傷の激しさから遺体が中江滋樹であることが断定されたのは火災から5日後の2020年2月25日のことで、警視庁によると歯型で中江滋樹であると確認されたとのこと。
中江滋樹は火災が原因で焼死と言う形で66歳の生涯が閉じられました。
中江滋樹の孤独死と言ってもいいこの世の去り方を見ても、元妻や子供との交流は一切なかったことが伺えます。
また、中江滋樹は逮捕後に「人生は相場が全て。相場の研究をしている時が一番楽しい。」と述べています。
中江滋樹の根っからの相場師であることが伝わってくる一言です。
もし、野望を持たずにコツコツと相場の研究をしながら株式投資で得た利益で満足していたら、もっと真っ当な人生を送れたことでしょう。
しかし、高校生で巨額の株式投資で利益を得られるようになった中江滋樹にとっては、そんな平穏な暮らしは退屈なだけであったのかもしれません。
中江滋樹の著書、「兜町の風雲児」には中江滋樹のこれまでに携わってきた人や株式投資についてが綴られており、株式投資で利益を得たい人にとっては、非常に面白い一冊となっています。
兜町の風雲児 中江滋樹 最後の告白 /新潮社/比嘉満広
中江滋樹と倉田まり子の関係は?
中江滋樹と倉田まり子さんはどのような関係にあったのでしょうか?
倉田まり子さんは当時アイドル歌手として注目をされ始めていた時でした。
1985年のフライデー創刊号に中江滋樹と倉田まり子さんのツーショットが掲載されました。
このことが発端で倉田まり子さんは芸能界引退に追い込まれています。
中江滋樹が倉田まり子さんに対して7000万円で自宅を購入してあげたと噂されました。
中江滋樹の愛人説が噂となり、倉田まり子さんに対するネガティブなイメージが定着してしまい、身の潔白を主張していた倉田まり子さんですが、結局は芸能界引退へと追い込まれています。
結局のところ7000万円の出所は「芸能プロダクションとの契約料を担保にした融資である。」とのことで収束されたようです。
しかし倉田まり子さんの7000万円の自宅は贈与された家とみなされ、結局は7000万円の家に対しての贈与税を払うことが出来ずに競売に掛けられたということです。
後に、中江滋樹は倉田まり子さんとの関係について、数回食事に行っただけで愛人関係にはなかったとのこと。
また、倉田まり子さんを巻き込んでしまったことで、芸能界から引退せざるを得なくなってしまったことに対して申し訳ないことをしたと謝罪の気持ちを述べています。
まとめ
投資ジャーナル事件で話題となった中江滋樹の結婚したお嫁さんや子供について、また愛人と噂された倉田まり子さんとの関係について紹介しました。
最後までお読み下さりありがとうございます。
倉田まり子さんの現在の様子についてはこちらの記事で紹介しています。
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