マリアナ諸島にポツンと浮かぶアナタハン島をご存知でしょうか?
太平洋戦争中から戦後にかけてアナタハン島では1人の日本人女性と32人の日本人男性が共同生活をしていたと言う奇妙な実話が存在します。
アナタハン島では、1人の女性を巡って男性が次々に不信死を遂げる不可解なことが相次ぎます。
悲劇のヒロインとなった女性は比嘉和子。
比嘉和子を巡って男たちの間には何が起こっていたのでしょうか?
複数の男性と関係を持ったとされるアナタハン島での共同生活で、比嘉和子の妊娠についても気になるところではあります。
また、無事に日本に帰還してから晩年までの比嘉和子はどのような人生を辿ったのでしょうか?
この記事ではアナハタンの女王事件の詳細と悲劇のヒロインとなった比嘉和子の妊娠と晩年までの様子をまとめています。
比嘉和子の生い立ち
まずはアナハタンの女王事件の悲劇のヒロインをなった比嘉和子の生い立ちから見ていきましょう。
- 比嘉和子(ひが かずこ)
- 生年月日: 1924年(大正13年)8月5日
- 死没年月日: 1974年(昭和49年)
- 出身地: 沖縄県
比嘉和子は大正13年に沖縄県で生まれています。
もし、現在比嘉和子が生きていたら2022年で98歳という年齢です。
比嘉和子は1974年(昭和49年)に50歳で亡くなっています。
比嘉和子の若かりしき頃の画像がこちら。

日本に帰還してからの比嘉和子の画像がこちら。
比嘉和子は沖縄の農家に生まれますが、幼い頃に両親を亡くしており、14歳で大阪に出て紡績工場で働き出しますが長続きはしませんでした。
1939年(昭和13年)に比嘉和子はサイパン島に出稼ぎに出ていた兄を頼ってサイパンに渡ります。
ここから比嘉和子の悲劇の物語が始まっていくのでした。
比嘉和子の夫
兄を頼ってサイパン島に渡った比嘉和子はパガン島のカフェで女給として働きだします。
そこで一人の日本人男性と出会い18歳で結婚。
比嘉和子の最初の夫となったのは、南洋興発の会社の社員でコプラ栽培の仕事に従事していた比嘉正一でした。
比嘉正一と結婚した比嘉和子は22歳の時にアナハタン島に夫と共に移り住んでいます。
アナハタン島はサイパン島の北117キロメートルに位置しており、島の全長は9キロ、幅3キロメートル、島の面積は32キロ平方メートルの小さな島です。
元々このアナハタン島には70人ほどの原住民が住んでいました。
ある日、比嘉和子の夫はパガン島に妹を迎えに行くのですが、その道中アメリカ軍の空襲に遭いアナハタン島に戻れなくなりそのまま消息不明となってしまいます。
後に明らかになるのですがこの夫は空襲から逃れ、無事に日本に帰っていたのです。
日本に帰った夫は比嘉和子が死んだと思いこみ、違う女性と再婚をして子供も設けていました。
本来であれば、この南洋興発の社員の比嘉正一が比嘉和子の正式な夫なのでした。
その後、比嘉和子は4人の夫を持つことになります。
アナタハンの女王事件の始まり
比嘉和子の夫がパガン島に妹を迎えに行ったまま消息を絶ったころ、アナハタン島には日本からの海軍に徴用されたカツオ漁船がアメリカ軍に攻撃されて乗組員らが命からがら泳いでアナハタン島に漂着します。
その他にもアメリカ軍に攻撃された船の乗組員を乗せた船が漂着するなど、兵隊10人と臨時徴用員の船員が21人、総勢31人の日本人男性がアナハタン島に漂着しています。
時は昭和19年6月の頃のことでした。
この頃、比嘉和子は消息不明となった夫の会社の上司である菊一郎と行動を共にしていました。
自然に比嘉和子と菊一郎は親密な関係になって行きます。
アナハタン島でコプラの栽培をしていた菊一郎は漂着した31人の日本人男性の面倒を見始めます。
しかし、31人の食糧が底をつくのもあっと言う間でした。
また、この頃になると戦争も激しさを増していき、アナハタン島の原住民はアメリカ軍により島を脱出していました。
アナハタン島に残ったのは、比嘉和子と和子の夫の上司の菊一郎、そして漂着した31人の水兵と臨時徴用員のみとなてしまったのです。
こうして比嘉和子と32人の男性だけの奇妙な共同生活が始まって行くのでした。
太平洋戦争の真っただ中、空襲に怯えながらも比嘉和子達は懸命に生き延びようとします。
食料は野生のコウモリやトカゲを食べ、里芋を栽培し原住民が残して行った種で野菜や果物を作り飢えを凌ぎました。
時は昭和20年の夏。
徐々に空襲も無くなり、アメリカ軍の空襲や飢えの心配も無くなり生活は安定の道を辿ります。
昭和20年8月15日、終戦を迎えます。
昭和20年9月にアメリカ軍のボートが海岸にやってきて、拡声器で「日本は降伏した。島に残留している者は速やかに投降しアメリカ軍の船に乗船するように。」とのアナウンスを流します。
しかし、アナハタン島に残った比嘉和子達はこの知らせを信じることが出来ずに島からは離れようとはしませんでした。
この時、アメリカ軍のアナウンスを信じてアメリカ軍の船に乗船していたら、アナハタン島に残った和子を始め32人の日本人男性は全員無事に帰還していたはずでした。
アナハタンの女王事件の真相は?
戦争は終わりを迎えましたが、32人の日本人男性と比嘉和子は依然として奇妙な共同生活はそのまま継続していました。
アナハタン島での自給自足の生活も徐々に慣れ、ヤシの実でお酒を作りにも成功。
穏やかな日々が送れるようになっていました。
そして菊一郎と比嘉和子が本当の夫婦ではないことを知った男性たちは、やがて菊一郎から和子を奪おうと考えるようになっていきます。
終戦から1年後の昭和21年8月に菊一郎と和子はアメリカ軍のB29の残骸を発見します。
そこからパラシュートやガソリン缶を回収。
B29の残骸があることを知った男たちも残骸に群がり探し物を始めました。
ここでA男とB男が4丁のピストルと70発の実弾を発見。
徐々にピストルを持ったA男とB男が権力を持ち始めます。
A男とB男と仲の悪かったC男がある日、変死体となって見つかりました。
C男の死因は木から落ちたということで片付けられます。
ピストルを手にしたA男は比嘉和子に「俺の女になれ。やだと言うなら菊一郎を殺す。」と迫ります。
この話が菊一郎の耳に入り、結局は菊一郎とA男とB男と和子の奇妙な4人暮らしが始まります。
やがて関係は徐々に悪化、B男がA男を射殺。
菊一郎はB男を恐れて和子をB男に引き渡します。
それから3か月後にB男は行方不明に。
和子はB男の行方不明について海に釣りに行って戻らなくなったと述べています。
B男の行方不明から半年して菊一郎が変死を遂げます。
和子は菊一郎の死を食中毒と説明。
A男とB男の死後、ピストルを手にしていたのはE男でした。
このことから菊一郎はE男によって射殺された説が浮かび上がっていました。
この頃になると、男性たちの間では「ピストルを手にした者が和子をものにする。」と言う噂が広まります。
その後も男たちの不信死は相次ぎます。
海鳳丸の船長が崖から転落死。
曙丸の船長が食中毒死。
ピストルを手にしたE男が溺死。
E男は大波にさらわれ行方不明になったといい、遺体が上がることはありませんでした。
これまでに行方不明を含め13人の男たちが命を落とす事態に発展しています。
やがて「元凶は和子」と言う雰囲気が漂い始め、命の危機を感じた比嘉和子は独りでアメリカ軍に投降し、救出されています。
比嘉和子は28歳になっていました。
これをきっかけに残った男たちも救出されており、1951年(昭和26年)7月7日に日本本土に上陸しています。
菊一郎を含め32人の日本人男性のうち13人が死亡、19人が無事に帰還しています。
次々に男たちが謎の死を遂げている背景には、やはり比嘉和子の存在が大きな発端となっていたようです。
日本に無事帰還した比嘉和子はインタビューで、
●島で夫となったのは4人の男であったこと
●比嘉和子を奪い合って死亡したのは二人
と述べています。
しかし、その他の情報で結局は比嘉和子を巡ってグループ内で対立が起こり最終的に6人の男性が犠牲になったという説もあります。
また比嘉和子はインタビューで、夫がいた時でもほかの男から「望まれれば誰とでも密通した。」と述べています。
またこのようにも述べています。
男との交渉はそれはもうずいぶんありました。
しかし、二人だけしか知らない秘密です。
中には生きて帰ってきた人も幾人かあります。
誰と誰かなんて、せっかく平和に日本に帰ってそれぞれ奥さんと暮らしているのに、名を上げることは私からは遠慮しますが、島の気持ちはここで考えるのもとは全く別です。
引用元: 文春オンライン
意味深い比嘉和子の言葉ではないでしょうか。
この言葉からも、アナタハン島で男たちが比嘉和子を求めていたことが伝わってきます。
男たちの不信死は比嘉和子の取り合いの結果に繋がってしまったのでしょうか。
これこれも戦争がもたらした悲劇であることは間違いありません。
比嘉和子の妊娠は?
アナタハン島での奇妙な共同生活において、自然と男たちは比嘉和子を求めて行ったことが想像できます。
また、比嘉和子自身も前述した通りインタビューでは、
●夫がいた時でもほかの男から「望まれれば誰とでも密通した。」
●男との交渉はそれはもうずいぶんあった
と述べています。
「誰とでも密通した。」と述べていますが、この「密通」の意味は、
「夫婦でない男女がこっそりと肉体関係を結ぶこと」と言う意味なのですが、、、。
この和子の証言からは、複数の男性と関係を持ったことが明らかになります。
複数の男性と関係を持った和子は妊娠はしなかったのでしょうか?
和子の妊娠について調べてみると、数子は一番最初の正式な夫である比嘉正一との間に妊娠が発覚しています。
しかし、夫が妹を迎えに行ったまま消息不明となってしまった頃にアナハタン島での空襲も激しさを増しており、空襲から逃れる際に流産をしてしまったとのこと。
この時、和子は妊娠5か月だったと言います。
この流産が原因で、比嘉和子は子供を授からない体になってしまったのだとか。
そのため比嘉和子はアナハタン島では複数の男性と関係を持ったにも関わらず、幸いにしてか妊娠はしなかったと言うことです。
比嘉和子の晩年
比嘉和子が無事に日本に帰還した時は28歳となっていました。
前述もしましたが、亡くなったと思っていた最初の夫が実は生き延びており再婚して子供も設けていたことを知ります。
この事実を知った比嘉和子は自ら生計を立てるために、複数の小料理屋を掛け持ちしながら懸命に働きます。
すると、アナタハン島での悲劇のヒロインとの噂が広まっていた和子を一目見ようとお店にはお客様が押し寄せたと言います。
その後、自分のお店を持つことに成功しますが、比嘉和子は常に「アナタハンの女王」「女王蜂」と呼ばれ、また好奇の目が向けられマスコミに追われるよになりカフェの経営か退かざるを得ませんでした。
ちちなみにこのカフェの店名は「アナタハン」でした。
どうせ世間に売った名前だから「アナタハン」で成功させようとの思いを込めて「アナタハン」と言う店名にしたそうです。
カフェの経営を辞めた比嘉和子は、興行師の口車にのり浅草でストリップ劇場の舞台に立つようになります。
常に世間から好奇の目に晒され続けましたが、ストリップ劇場から身を引き沖縄に再び戻った比嘉和子は2人の連れ子のいる男性と再婚を果たしています。
その後名護市でたこ焼き屋を開店。
夏場はかき氷屋としてお店を営みながら平穏な日々を送られていたようです。
2人の連れ子とは折り合いも良かったとのこと。
その後、比嘉和子は脳腫瘍を発症。
1974年(昭和49年)3月に名護市の病院で50歳の若さで波乱万丈な一生の幕を閉じました。
まとめ
アナタハンの女王事件についての詳細と悲劇のヒロイン比嘉和子のその後から晩年の様子を紹介しました。
にわかに信じられないような、このような実話があたことに衝撃でした。
最後までお読み下さりありがとうございます。
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